ベガスでロシア人を撃つな

6/9の日記

(一旦下書きで公開)

福岡の実家に帰るために朝4時半起きで成田空港に向かった。ジェットスターの成田発福岡行き、値段は6,000円くらい。これだけ安いと他の航空会社を検討する理由がない。

東京駅から1,000円バスに乗って成田第3ターミナルへ到着した。朝7時過ぎ。今回初めてジェットスターのウェブチェックインを利用したけど超便利。紙をなくすのは本当に良いことだと思う。なんでも紙で提出させようとする公共機関・上司・企業は地球環境に対するテロリストとみなしてもいいと思う。

飛行機の中ではAmazonプライムで『超高速!参勤交代』を見た。設定は面白い(北関東の小国が参覲交代から帰ってきた数日後に、金山接収を目論む幕府から5日以内に再度参覲交代しろでないと藩をとり潰すとお達しが来て、超高速な参覲交代を実行する)のに、リテラシーの低い視聴者(視聴者というのはつまり、例によって映画館で観る人よりも地上波で見る人を想定されている)に合わせてつまらなくなってしまっているパターン。残念。ユーモアだけ一点突破で突き抜ける方が絶対面白くなったと思うけど仕方がない。役者はみんな好演だった。

昼の1時過ぎ頃に実家に到着。その後昼寝して(LCCを使わなければならない貧困のせいで2時間しか睡眠できなかった)、ヤフオクドームに「ホークスvsベイスターズ」の交流戦を家族で見に行った。

久々に野球を生で観戦した。昔より、なんか、プロ野球に外国人少なくなったなあと思った。ベイスターズの外人は本当にひどかった。。。

10時半くらいに家に帰ってきて、コンビニサラダ食べて氷結ストロングゼロを飲みながらこの日記を書いている。

明日は日帰りで釜山に行ってみようかと思って(福岡からフェリーで3時間、飛行機で1時間くらい)一応パスポートを持ってきたのだが、交通手段の関係上、意外と滞在時間が短いことに気づき、中止。持ってきた本を読んだり天神のカフェを渡り歩いて勉強でもしようかな。

(6分で作成)

日記を書くことの意味について

日記を書くことの意味について。日記は、出来事が起こっている最中または直後(これは最中とほぼ同義だ)に書かれるものであって、後になってから書かれるものではない。つまり、日記にはストーリーがない。講釈がない。あとづけがない。後日談がない。

日記には材料がある。感情がある。事実がある(文字どおりそうとは限らないが、少なくともその日その状況ではそう見えていた、そう見たいと思っていた、という事実がある)。
日記を書くことはその場では役に立たない。多くの場合、後になっても役に立たない。先には常に役に立つ。今考えていること、今起きたこと、今湧き上がってきた感情、これらは全てこれから書かれることである。そのような緊張感、あるいは第三者の目線が立ち上がる。
 

【書評】楠木建『好きなようにしてください』を読んだ

何かにつけて「良し悪し」の議論になりがちな仕事論、キャリア論において、「キャリアというものは、どこまで行ったって個人的な問題でしかないのだから、好き嫌いだけで決めていいじゃないか」というスタンスで貫く、経営学者の楠木建先生の人生相談回答集。

News picks上で行われた企画なので、「大企業とスタートアップどちらに入社すべきか分からなくて不安です」「このまま大企業に居続けて成長できるか分からなくて不安です」「オンリーワンなスキルを身につけないとこの先生きていけませんが何をすれば得なのか分からなくて不安です」などの不安を抱くネオコン教スタートアップ派の潜在信者たちが主な相談者。それらのほぼすべてに対して「あなたの好きなようにしてください」とひたすら紋切り型の回答が延々と続いていく。50人くらい?の学生・ビジネスマンの人生相談が扱われているにもかかわらず、すべてが紋切り型の回答で済んでいるというのがミソで、つまり彼らは結局のところ自分の深いところにあるもの(経験、体験、考えの積み重ね)ではなく、突然伸長してきた見知らぬ勢力(彼らの場合は典型的なNewspicksユーザに代表されるような人、信条、固定観念、場の空気)の熱意に満ちた宣教活動に影響されて、余計な不安を感じているのである。つまり楠木先生が対話している相手は、個々の相談者ではなくて、時代の空気なのであり、2010年代の第二次テックバブルが社会に与えたインパクトの本質は宗教改革なのだということを改めて理解した。

 

楠木先生のユーモアや、教育者というか人生の先輩としての懐の深さが好きなのだけど、中でも好きなのが「インドでプログラミングを学べば、自由になれますか?」というぶっ飛んだ人生相談への先生の回答。

相談者が人生の重要な局面での決断を好き嫌いで選んできたことについては「筋が良い」と先生は言う。「大きなものに寄りかかることなく自由に働きたい」という自分のキャリアの起点をきちんとコンセプト化できているのは良いと。ただし、そのコンセプトを具体化したものがなぜ「インドでプログラミングを学ぶ」なのか?(笑)という点につっこみが入る。

先生曰く、こういう時は「具体と抽象の往復運動」を根気強く行うべきなのだとのこと。何か上位コンセプトを仮決めした上で、そのコンセプトを具体化するような選択肢をいくつか出してみる。それらをすぐに選ぼうとはせず、まずはじっくり検討してみて、それぞれの共通点と相違点を見つけた上で、再度上位コンセプトに立ち返って微調整する。これを納得いくまで繰り返す。そうすると、本質的な(多分「長続きする」ということだろう)自分の好き嫌いが見えてきやすい。

具体的なオプションが出てきても、すぐにどれかを選ぼうとしてはいけません。まずはそれらをじっくり眺めてみる。それぞれのオプションの共通点とか相違点が見えてくるはずです。そうすると、とりあえず上位に置いた「場所に縛られない自由人」が本当のところ何を意味しているのか、自分のコンセプトに対する理解も深まるはずです。これが、具体から抽象へと上へ移動する思考の動きです。その結果、「場所に縛られない自由人」というコンセプトはさらに洗練され、自分にとってより大切なものが見えてくるかもしれません。

 

 

この本には前編と後編があって、それぞれ「好き嫌いと経営」「好き嫌いと才能」。こちらも読んでみたが、「才能」編は多くの人にすすめたい。先生の言う「役職や職務以外の職業上の役目を持つこと」へのヒントになると思う。なんであれ仕事で何者かになりたいと思っている人にはおすすめ。

「経営」編は読まなくていいかなあ死ぬほど経営者になりたい人以外は。あるいは死ぬほど経営者になりたい(なりたかった)人を理解したい人以外は。

稲盛化する社会について

何もすべきことがないので一日中怠けたり、本を読んだり、ぼーっと考え事をしたり、怠けたりしていた。

 

暇だったのでウィキペディア稲盛和夫の項目を読んでいた。父が昔京セラに勤めていて、稲盛さんの本は何冊か家にあった。その中の自伝みたいなものは、中学生の時に読んだことがある。父はとくに稲盛的な仕事人生に共感してはいなかったようだが、社内の管理職研修かなにかのために、稲盛さんの著作を(休日に)(無給で)読んで、感想文みたいなのを書いていた記憶がある。Microsoft Word を方眼紙フォーマットにしてなんか書いてたのを盗み見た覚えがある。京セラフィロソフィーとかどうとかこうとか。

ウィキペディアの記述と中学生の時に読んだ自伝と父から聞いた話を総合すると、稲盛さんは中小企業の社長のような人間性とか考え方を持った人のようだ。ビジネスや組織における定性的な事象を、ふたが何枚あっても足りないほど青臭い定式化によって喩えたり(何とかの成果=情熱×行動量×哲学、とかそんなの)、正直外から見ている限りだとかなりうさんくさいというか、小物くさい。知らない会社の最終面接でこの人が出てきてこんなこと言っていたら、100%辞退したくなるだろう。しかし彼のような考え方を受け継いだ創業者たちが日本の偉大な企業を作っているのは現実である。稲盛さんに影響を受けたであろう社訓(でもビジョンでもミッションでも何でもOK)はパッと考えてもいくつも思いつく。

そこで思ったのは、稲盛和夫的な世界が幾何級数的に増殖していっている。まるでアメーバのように。

三田工業日本航空、窮地に陥った古豪に稲盛和夫が単騎で乗り込んでいき、その稲盛的DNAを、7月の濁った田んぼに分け入っていく広島の農家のように迅速に植え込み、組織を去っていく。稲盛化され、首尾よく盛り返したかつての大企業(とその広報部)は、V字回復のストーリーを出し惜しみなく喧伝し、それらはミームとなってあらゆるメディア(マスなもの、非マスなもの、ソーシャルなもの、非ソーシャルなもの)に流れ込み、人々の潜在的な稲盛的願望の隙間に一斉に潜り込む。稲盛的ブラックホールの種は急速に膨張して、周囲のあらゆる資本、アイディア、勤勉な人材、オペレーショナル・エクセレンス、ビジネス書業界だとかを取り込みながら、複製された島宇宙を拡大していく。行くところまで行けば、それは文化となる。

つまりこの人、アントレプレナーというよりは要するにアーティストなんじゃないか?(もしくは宗教家?)(企業家と芸術家と宗教家の違いって何だろう?)(科学者や浪費家は?)

 

考えるのに飽きて、ベランダでレジャー用パイプ椅子に座りながら、本を読んでタバコ吸ったりしていたら、ぶんぶんいう虫が寄ってきたのであわてて部屋の中に入った。虫はいつも俺の平穏な世界を破壊する。。。

「カジュアル面談」は普通に面接である件

久々に代々木のアブラ学会に来た。並盛り。真ん中の席に座ろうとしたら、奥から座ってくださいと言われたので、おとなしく一番奥の狭い席に行った。他に客はいなかったのに。

面接の後だったので、態度のでかいやつに見られないように行動しようとする神経が過敏になっていたようだ。

 

夜は面接。というかいわゆるカジュアル面談だったのだけど、まあ実際もろに面接だった。

採用担当だった身として、いわゆるダイレクトリクルーティング(人材紹介会社を通さず、直接人材データベースにアクセスしてスカウトする採用のやり方)における「カジュアル面談」というのは応募者から見てなかなか位置づけがわかりにくいステップだと思う。

採用する側から声がけするのでもちろん最初は「まずは会社説明として話を聞きに来ませんか?」みたいな下手に出るスタンスにならざるをえないのだけど、企業としてリソースを使って行うからには(データベース利用料、採用担当者の人件費と選考にもコストがかかる。当たり前だが)、企業としては当然選考している。応募者の話をがっつり聞かなくとも、受け答えや質問の鋭さからある程度能力を判定できるし、雑談だけでも人物面の判定は十分に行える。採用面接というのは仮説の検証なので、別にこの段階で十分に判断をしなくてもよく、とりあえず次のステップに進ませても問題ないと判断できればそれでオッケーである。

実際のところ、採用したいと思うような人材は、初めから企業側の意図など十全に承知しているので、あえて「面談」とパッケージすることに意味があるのか疑問ではある(新卒採用でありがちな欺瞞を中途採用に持ち込んだだけじゃないか?)。正直に「会社説明+選考」と言ってしまって別にいいんじゃないか。その時点で応募意志が固くない人にアプローチする手法という前提だが、応募者側も別に興味のない企業に落とされたからといって別になんでもないだろう(いちいちショックを受ける人もいるのだろうか?)。

とりあえず今日はこんな感じ。