ベガスでロシア人を撃つな

ヒップホップはラッダイトをやってもいいのか? ― 社会変革の可能性、あるいはその限界 ―

  Google Driveを整理していたら、学生時代に授業で書いたレポートを色々見つけてしまった。いま読んでも考えや認識が変わっていない、かつ、ウェブに流すのが恥ずかしすぎるわけでもない、くらいのものがあったのでブログに掲載しようと思う。(誤字脱字含め未修正。参考文献の記載がないため事実との整合性は未確認。2011年の後期期末レポートとして作成)

  もしかしたらどなたかのブログor書籍などから剽窃(サンプリング...とは言いません)している可能性があるので(何をinputに書いたのか記憶が曖昧なため。。。)、もしその点について疑義がある方がいらっしゃいましたら、コメント欄等でご一報頂けると幸いです。(ASAPで修正or削除します)

 

*タイトルは、トマス・ピンチョンのエッセイ ”Is It OK to be a luddite?"(ラッダイトをやってもいいのか?)から取ったと推察。

 

 

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 ポピュラー音楽、いわゆるポップスは古今東西で、若者の人格形成や行動に多大な影響を与えてきた。若者は自分の気分や問題意識をうまく表現するアーティストを探し、友達と共有することを楽しむ。時代を象徴するいくつものアーティストが登場しては衰退していき、若者たちは彼らの作品を発見し、親しみを持ち、同年代とのコミュニケーション・ツールとして消費しては、もっと共感を持てるような別の作品を発見するといった行動を繰り返してきたのである。そしてその最新の動向としてあげられるものがヒップホップの普及である。アメリカにおいて黒人のストリートで発祥したヒップホップが、世界中のヒットチャートを賑わせている。70年代に登場したヒップホップは急速にその表現方法を発達させてきた。90年代には、いくつかのヒップホップ・アーティストは発祥国のアメリカで国民的人気を獲得し、00年代に入るとアメリカ国内のヒットチャート上位の大半を占めるようになり、さらにその人気は世界中に飛び火していった。したがって、現代のポップスを語る際には、ヒップホップの台頭は欠かせない話題となるだろう。ヒップホップの登場とその流行は、アメリカにおいて、若者の行動にどのように影響を与えてきたのであろうか。またヒップホップが今後、アメリカに留まらず全世界で社会変革を促すような、歴史的に更に重要な意味を持つムーブメントとなる可能性はあるのであろうか。本レポートでは、この点に軸足を置いてヒップホップが若者と社会の関係性に与える影響を考察する。

 ヒップホップは、70年代初期の黒人貧困層の居住区(ゲットー)に起源を持つと考えられている。この時代のアメリカでは国民の間で所得格差が拡がりはじめ、都市の中に住む貧しい黒人と郊外に住む裕福な白人という構図が顕在化しつつあった。このような不安定な時期に起こったのがヒップホップであり、ストリートや公園で芽吹いたこの新たなカルチャーが若者に自己と社会に対する問題意識を自覚させ、現在では海を越え、人種を越え、世界中のスタジアムでイベントが行われるような巨大カルチャーへと進化を遂げてきたのである。
 もともとはゲットーの一部でのはやりものであったヒップホップは、「ラッパーズ・ディライト」のヒットによって最初の一歩を踏み出し、全米の黒人の若者を巻き込む流行となったのである。当初はいわゆるパーティ・ソング的な楽曲が多かったものの、80年代後半からは、政治的な主張をハイライトしたヒップホップ・アーティストも登場した。その後は前述の通り、世界的な流行を経てポップスの一大ムーブメントとなったヒップホップであるが、この流れの中で、ヒップホップは文化的な重要性と同様に、商業的にも重要な意味を持つようになった。つまり、黒人貧困層のアングラ・カルチャーとして出発したヒップホップは、白人を始めとする他人種を主要な顧客とする、カネになる巨大ビジネスへと変貌したのである。
 このことはヒップホップのスタイルに論争を巻き起こす変化を起こした。ラッパーたちはレコードを売るために過剰なキャラクターを演じはじめたのである。麻薬や銃の使用、行き過ぎた女性蔑視を歌詞に盛り込んだギャングスタ・ラップと呼ばれるスタイルがヒットするようになったのであるが、これはまさに、黒人に代わり白人が主要なリスナー層となったためであると解釈できる。このような「ゲットーの日常」を描いたマッチョイズムは、中流以上の白人の若者にとって、憧れの「非日常」であるからである。そのような白人のニーズに応えるラッパーは当然、黒人からは「カネのために白人に魂を売った」として非難された。さらには音楽のスタイルどころか、楽曲がヒットし、アーティストが裕福になること自体が、主要なリスナー層である白人に受け入れられたという意味で「ワック」(=ダサい、といった意味のスラング)であると評されるようになったのである。

 この流れは、黒人の若者と白人の若者のあいだの自己意識及び関係性において、重要な断絶が存在することを示唆していると私は考える。つまり、白人の若者のゲットーへの憧れから見られるように、彼らは黒人のサバイバルでスリリングな日常とそれらをくぐり抜けてきたタフネスに尊敬の念を感じているにもかかわらず、黒人の若者はそのリスペクトを素直に受け入れようとしないのである。
 経済的に大きな成功を収めたヒップホップが、そのパワーを利用して政治的課題解決の手段として期待されるのは当然のことである。アメリカには未だに白人・有色人種間での感情的断絶、経済的格差が存在し、解決の兆しは見えていない。ヒップホップという現代のアメリカの若者にとっての共通言語が、互いの人種間での歩み寄りを促進し、様々な人種のあいだで平等に福祉を享受できるような政策策定のための議論と行動を促すプラットフォームとなることを期待する人々は大勢いる。人種の壁を越えて若者に受け入れられたヒップホップは、そのような社会変革を起こすポテンシャルを十分に持っているように見えるが、先に述べたようにその内部には未だに埋めがたい断絶が存在するのである。
 アメリカに限らず、ヨーロッパでも、グローバリゼーションに基づく移民の受け入れが進み、国家内での多人種化が進んでいる。わが国をはじめとした東アジアの経済的先進国諸国でも、そのような流れが加速する蓋然性は高い。そのような将来に起こりうる問題としてあげられるのは、移民であるマイノリティたちとの感情的・経済的断絶である。ポピュラー音楽などの普遍的文化は、少なくとも人種間の感情的断絶を緩和し、それが経済的断絶をも解決に向かわせる糸口となるポテンシャルを十分に備えていると私は考える。しかしながら本レポートで見てきたように、現在アメリカで生じている先進事例はその仮説の反証となるようなものであった。
 文化が人々の利益のための政治的行動に使用されるのが良いことであるという点に疑いはない。ヒップホップという巨大な文化の力を良い流れに向かわせるためには、ヒップホップ・アーティストたちの今後の活動、特にヒップホップ世代に良い影響を与えるような活動がいかにしてなされるかにかかっているのである。


(2557字)

<読書録>『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』

 かつて、音楽が無料で手に入る時代があった。1990年代の終わりから2000年台半ばまでの間、CDはまるで売れず、というかCDに収められていた楽曲(1枚あたりだいたい12曲)は音楽の海賊たちによってウェブの海上に放流されていた。音楽ファンは無料で、自宅から、アーティストたちの作った作品を自分のものにし放題の時代だった。

その海賊版の時代以前、音楽はだいたい10曲当たり3,000円も払って購入しなければならなかった。音楽が欲しい人は、財布から物理的な紙幣を取り出し、雑菌まみれのお札に触れて手を汚しながら、わざわざ繁華街のCDショップに出向いて物理的なディスクを購入していた(しかも、ショップに行くための電車賃まで支払っていた)。
 
そして本書が出版された2016年。実は今も、音楽は無料で手に入る。だが、海賊版mp3の太平洋だったPirateBayやMegaUploadが干上がってその姿を消し、誰もがクラウドストレージの利便性に味をしめた今、海賊版の音楽を欲しがる人はもはやマイノリティになった。代わりに人びとが音楽を手にい入れる場所はSpotify、AppleMusic、AmazonPrime Musicを始めとした、サブスクリプション型のストリーミングサービスになった。その対価さえも、無料時代以前と同じ水準に戻ってはいない。今や月額1,000円以内で、数百万曲の楽曲を手に入れることができる(もちろん電車賃なしに)。とはいえ、音楽を含めたあらゆるものがネット上で無料で供給されるようになった今の時代、数百万もの音楽を聞くような暇や意欲も、僕たちは持ち合わせていないのだが。
 
上述のシリコンバレーのテクノロジー集団により音楽は再び有料になったが、そのビジネスモデルは古き良きCDアルバムの時代ほど洗練されてはいない。ニューエコノミーの覇者たちは、自らの新しいプラットフォームから往年の音楽レーベルほどの収益を上げられておらず、アーティストたちは割りを食わされたままだ。音楽ビジネスの大量絶滅の後、その大地は干上がったままになった。
 
本書は、そんな海賊版の時代を舞台に、音楽を無料にした張本人たちを描く群像劇だ。本書には主に3人の人物が登場する。海賊版ブームの土台となったmp3規格を発明したオタク技術者。世の中に流通する海賊版mp3の大部分を(人知れず)流出させた、CD工場で働く黒人労働者。時代の波に乗りながらアーティストを守り、そして自らの営業利益も守りきった音楽レーベルの名物CEO。その三人がこの本の主人公だ。さて、誰が音楽をタダにしたのか?
 
結局のところ、海賊版時代の主人公たちはみな舞台から退場し、代わりにアップルを始めとしたシリコンバレーハッカーたちが音楽ビジネスの主役に取って代わった。だが彼らも、例の古きよき時代のレーベルほどには音楽で金儲けできていない。業を煮やしたアーティストたちも色々と実験しはじめている。静的な楽曲データの販売ではなく、ライブのチケット販売および会場での物販に活路を見出すやり方が、今のところの主流のようだ。本書でも言及されているとおり、レディオヘッドはスポティファイから曲を引き上げてビットトレントでアルバムをリリースし、投げ銭方式(聞いた人が自分の好きな金額を支払う)での収益化を試みている。レディ・ガガはアルバムを1ドル以下で売り出し、発売1週間で100万枚を売り上げた(もし昔ながらの3,000円という価格で販売していたとしたら、わずか330枚の売上に過ぎないのだが)。日本のHi-STANDARDは、事前予告なしにリリースした16年ぶりの新曲をリアル店舗のみで販売し、オリコンチャートで首位を取った(もはや他のCDはリアル店舗には置いてなかったのかもしれないが)。
 
結局のところ、海賊版革命は長続きせず、一時の流行に過ぎなかった。当たり前の話だが、それでは音楽を作る人がいなくなって、結局のところどのみち市場は消え失せてしまう。市場は生き延びたが収益性はまさに焼け野原で、AppleSpotifyのようなディストリビュータだけがわずかなパイを奪い合い、クリエイターが飯を食えない状況はいまだに続いている。

 

黒人の日本征服(小説)(ドラフト)

時は戦国時代、300あまりの小国が小さな日本列島を群雄割拠し、列島の覇権を争い合っていた。

ある時九州は肥後の小国、阿蘇藩に流れ着いた小さなガレー船があった。乗っていたのは世にも奇妙な黒い肌をした大男が10人程ほど。彼らはその大きな図体にもかかわらず痩せこけ、元々黒い肌の上からでも分かるほど全身に垢がこびりついていた。

彼らをまず最初に発見したのは宇土の漁師だった。3,4名の漁師は黒人たちを家に招き入れ、治療をし、食事を与えた。回復した黒人たちははじめ漁師に雇われて遠泳漁業に従事し、台湾や中国、朝鮮、南西諸島の交易商人と人脈を作った。

やがて彼らの腕力と快足に目をつけた商人が、飛脚として使用するために彼らを漁師から買い取る。彼らは本州遠征を幾度と繰り返す中で、近畿や関東の有力者と顔見知りになり、恐れられつつもその実力を認められる。この頃には日本へやってきて7年が経っており、すでに日本語もほとんど完璧い操れるレベルになっていた。

時の宇土城城主、名和顕忠はこの黒人たちを戦力として活かそうと商人から買い付け、剣術と武術を習わせたが、決して侍として育てようとはしなかった。やがて名和が佐々木に倒され、さらに小西氏が宇土の政権を握る中で、黒人たちは城の要域に入り込むまでになっていた。

黒人たちの実質的な主導者だったバラゼル(和名を戊吉)は、加藤清正が実権を握るにあたって関白付きの要職につき、文禄元年の第一回朝鮮出兵にあたっては加藤軍の実質的な指揮を任され活躍。帰国後、人民も財政的にも疲弊しパニック状態に陥っていた加藤下の肥後藩でクーデターを起こし、戊吉は肥後藩の藩主についた。この頃秀吉とも懇意になり、名黒の姓を与えられつつ(この時まで加藤は黒人たちに姓を与えていなかった)、秀吉直下の黒人兵団を自らの師団に与えられて、下総と武蔵の狭間の裏安に領土を与えられる。

この頃から黒人たちは武力の充実に努め、裏安の少ない資源を有効に追加いながら、宇土時代の人脈を頼って南蛮貿易航路を開拓し、財産を蓄積させた。日本人でなく、しかも真っ黒い肌と大柄の体格を持つ自分たちに支配される裏安の民どもの不安や恐怖感を黒人たちは十分に理解しており、南蛮貿易で蓄えた資本を使って交通を整え、商人街を建造し、課税を極端に軽くし、水呑百姓や下流商人、また戦に敗れ財産を失った武士の起業を積極的に促進した。南蛮の商人や宣教師も現地の物品の輸入を条件に積極的に受け入れることで、裏安藩は当時の日本国内、いや世界的に見ても有数の経済的・文化的水準を誇るに至った。

豊臣が倒れ、徳川家康江戸幕府を開くにあたって、裏安の名黒氏は関ヶ原での貢献を認められ、下総の一部を含む60万石を与えられ、国内でも最大級の勢力となる。慶長11年、徳川二代目秀忠の時、名黒三代目惣流はクーデターを決行。南蛮貿易仕入れた大砲と長距離火縄銃で新宿の戦いを圧倒的強さで制し、徳川幕府を打倒。

しばらく幕府は空位状態が続いたが、惣流はその間に朝廷との結び付きを強め、じきに征夷大将軍に任ぜられるがこれを断り、京都御所の近くの烏丸に一族で本拠を移し、新倉に姓を改め城を建造、城主となる。長らく徳川幕府空位状態のまま、日本は実質的に天皇が治める国家となった(これは非常に奇妙なことである、本来名目上はこの国は天皇が治め、実質的に徳川が実権を握っていたのだが、ここに来て名目的な実権の実質を皇室が握るという倒錯した権力構造となったからだ)。新倉六代目(名黒戊吉から数えて九代目)の平政は、皇室出身者と婚姻関係を結び、この時日本史上初めて、黒人の皇族関係者が誕生した。そして当時ですら大方が予想したとおり、黒人の天皇が誕生することになる。

嘉永天皇と称するこの黒人天皇は、新倉家の伝統的な戦術である南蛮との相互交流を推進し(これは実質的に日本のグローバリゼーション史の幕開けと解釈されている)、グアム、ハワイの王国を経由してアメリカ大陸西海岸に初めて官僚を派遣する。これは嘉永5年のことである。折しも米政府はマシュー・ペリーを指揮官とした極東遠征を計画しており、この黒人の日本官僚七助の到来には大きな財政的インパクトを感じ、丁重なもてなしのうえ、首都ワシントンへ招き入れた。

 

『ヒトラーを支持したドイツ国民』の感想

 そもそも一国全体が卑劣な独裁者の言いなりになり洗脳を施されるなんて有りえないというのは感覚的に分かるのだが、しかし実際のところ、第三帝国下のドイツをオーウェルの描く平行世界の1984年的世界観から切り離してイメージしてみるのは難しい。

 それは一つには、日本もそのドイツと同時期に同様のディストピアを経験していて、その時に受けたこっぴどいダメージの後遺症が現在の自分たちの有り様に確かに影響を与えているのを無視できないからであるし、一つには、願わくばわれわれはその悪夢を押し付けられた被害者であって、それゆえに自業自得の強迫観念から免れたいという民族アイデンティティ上の逃避行が心地いいからでもある。

 当時のドイツといえば、高度な教育を受けた6000万もの人口を抱えていた世界有数の文明国だ。そんな先進国がヒトラーという悪の権化、馬鹿げた地獄の使い魔を進んで支持していたとは考えたくないわけだ。

 しかしこの本は、その出来れば見て見ぬふりしておきたい現実をしっかりと頭に叩きつけてくれる。ヒトラーが持ち前のマーケティングセンスをフル活用して国民のニーズを的確に読み取り、国民の不安を心地良く和らげ、国民の願望や私利私欲をことごとく満たしていった先に、国民にとって理想の独裁者であろうとし続けた先に、例の終末的な敗戦と未曽有のジェノサイドが待ち受けていたのだという現実を。

 

ヒトラーを支持したドイツ国民

ヒトラーを支持したドイツ国民

 

 

4年前の中東旅行日記(ベータ版)

Evernoteを遡っていると見つけたので、ここに公開しておこう。(この文章を書いたのは2013年6月ごろのようだ。)

2012年の8月・9月、大学生活最後の夏休みに、7カ国(ドバイ・オマーン・エジプト・ヨルダン・イスラエルギリシャ・トルコ)をバックパッカーした時の話。ほんのさわりの部分だけを書いたもの(すぐ飽きたっぽい)。このベータ版では最初の3日間くらいだけ。旅行の予定を立ててから飛行機に乗り、最初の目的地のドバイでの滞在1日目までのことを書いている。いつか続き書きたいな・・・(一応、旅行中に毎日つけていた当時の日記は残ってるので)。

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ドバイで撮った2枚。iPhoneで撮影

 

 

 

出発前1(旅資金を貯める)

【2012年2〜5月】

 それに親でも殺されたかのように働くことが嫌いな僕だが、2012年の春先から初夏にかけては、毎日のように朝から晩までバイトに励んでいた。大学を留年し、これといった当面の目標もなく、日々を怠惰に過ごす。宇宙の奥底へ続く真空空間のように茫漠とした時間の厚みを、本や映画やネットを消費することでさらに薄く引き伸ばす。そんな生活を送っていた僕を連日連夜のアルバイトに駆り立てたものは、夏休みに予定していた2ヶ月間の海外一人旅への切望だった。

 旅好きの友人に影響を受けて以来、大学の長期休暇を利用して中国・東南アジア・ヨーロッパを一人で回ってきた僕は、次なるターゲットを中東地域に定めた。想像したのは焼けるような砂漠の大地と、エキゾチックな宗教を熱心に実践する人々。そして何より、これまでの旅よりも遥かに難易度が高そうな気がすることが僕の冒険心を刺激したのだ。冒険心というと聞こえはいいが、実際のところそれは怖いもの見たさであったり、周りの人に対する自慢欲求だったり、あるいは単なる破滅願望でさえあったかもしれない。いずれにせよ、中東を旅行することを考え出したらワクワクが止まらない気分になった。行くしかない。そう思うと、働く意欲さえ湧いてきた。

 

出発前2(行き先を決める)

【2012年6月〜7月】

 バイトをしながら、来たるべき中東旅行に必要なものを徐々に揃えていこうと考えた。まずはガイドブック。バックパッカーお馴染みの『地球の歩き方』を本屋で立ち読みすることにした。旅慣れた人は、ガイドブックの携帯はむしろ旅の楽しさを削ぐものだとよく言う。過去3回の一人旅で僕はこの『地球の歩き方』を持って行った。自分が旅慣れているのか分からないが、今回も持って行くかどうかは後で考えるとして、大まかなイメージを掴むため、そもそもどの国を訪れるかを決定するために、ひとまず目を通そうと考えたのだ。

 そう、僕は中東地域へ行くとだけ決めたが、具体的にどの国々をどのようなルートで回るか、あるいは回ることができるのかということを、その時点では考えていなかった。僕には「憧れの都市」がいくつかあって、その存在が僕を海外旅行に向かわせる動機の一つでもあるのだが、今回の中東地域でいえばそれはイスタンブールエルサレムだった。僕が説明するのもおこがましい、存在を想起するだけで脳に重みを感じる文明の交差点、歴史の交差点であるイスタンブール。そして、3つの宗教の始発駅であり終着駅でもあるエルサレム

 特にエルサレムは僕にとっての憧れだった。僕は(ほとんど全ての日本人と同じように)何の信仰も持たず、どの神様も信じていないために、宗教の存在に対する漠然とした好奇心を昔から持ってきたし、本を読んだりして自分なりに学ぼうとしてきた。尊敬する作家や学者やスポーツ選手や映画監督・映画俳優、彼らのように聡明で立派にすぎる人格を備えた人々が、なぜありもしない「神」への感謝をとなえたり、嘆いたり、あるいはあの手この手で反逆を試みたりするのか。欧米の青年がするように、自身の信仰への疑問や信仰が無いことへの疑問を感じた経験のない、ごく平均的な日本人青年である僕にとっては、信仰を持つことは謎に満ちた行いだと感じてきたのだった。もちろん単にエルサレムに行けばその謎が解けると考えたわけでははい。現在の地球人口と近代史の大部分の性格を形作ってきた3宗教を生んだ地に足を運ぶことで、それらを生み出したエンジンのようなもの、もしくはある種の魔術のような空気に浸れるのではと、むしろ自分本位に妄想したのである。

 トルコとイスラエルを軸とすれば、他の訪問国候補は陸続きのエジプト、ヨルダン、シリアに自動的に決まる。しかし、中でもシリアはこの時、2010年以降の一連の革命に端を発する内戦が勃発していて、次第に激化していく様相を呈していた。中東へ行くことに対してまず第一に想像したリスクは、テロに巻き込まれる可能性。具体的にイメージしたのはやはり、イラクでの日本人バックパッカー人質殺害事件だった。旅先で詳しく知ることになるこの事件だが、出発前は「なんとなく怖い」程度の印象しか持っていなかったし、例の殺害動画も閲覧したことはなかった。

 本来これらの国々を効率良くまわろうと思えば、カイロ→イスタンブールというルートで一直線に行けるのだが、エジプト、ヨルダン、イスラエルと行った後には、内戦中のシリアは迂回しなければならない。小アジアからトルコへ抜けるルートを情勢不安定なシリアとイラクに塞がれているから、したがってイスラエルからは飛行機で移動することになる。ということは、イスラエルの次はトルコの隣国ギリシャに寄るのが好都合だ。ネットで調べれば、アテネからイスタンブールまでは国際バスで安価に移動できるらしい。

 さらに、『地球の歩き方』を眺めているうちにドバイにも行ってみたくなった。気がかりだったのは物価の高さ、そして、現代随一のリゾート・ビジネス都市にバックパッカーとして訪れてもやることはあるのだろうか、居場所があるのだろうか、ということだった。しかし『地球の歩き方』を見る限り、低所得者層が住む旧市街地も観光地として訪れることができるという記載があり、とりあえず今回の行き先に含めることに決める。そしてついでに、隣国のオマーン(首都マスカットまでドバイからバスで4時間程度)にも訪れることにした。オマーンについては、"サッカーで勝たせてくれる国"程度の認識しか持ち合わせていなかったが、日本人があまり行かなそうだし、マスカットという首都の語感にみずみずしいイメージを感じて、なんとなく行ってみようと考えた。

 これで訪問国のイメージは大体決まった。
ドバイ→オマーン→(空路)→エジプト→ヨルダン→イスラエル→(空路)→ギリシャ→トルコ→帰国。2ヶ月間で7か国。ややゆったりめの旅程で、急がず暇せずちょうどいいペースで回れるスケジュールだと思った。

 

出発前3(航空券購入/成田空港へ)

【2012年7月・8月3日】

 航空券を買うためにHIS、トラベルコ、Skygate、Skyscannerなどを巡回する。ルートとしてはドバイin・イスタンブールoutのオープンジョー航空券に条件を限定し、所要時間がかかってもなるべく安いもの探すようにした。ヒットした一番安い航空券が、中国東方航空を利用で中国国内で2回乗り換え、所要時間27時間というものだった。27時間!これが漫画だったら思わずギザギザのふきだしに入れたくなるところ。時差5時間のドバイまで行くのに27時間を費やすことにアホらしさを感じないわけにいかないが、安いので仕方ない。空港のベンチで一夜を明かすことにも抵抗はないので、このチケットに決めることにする。

 8月3日、出国日。以前の旅行でも使っていた40Lのリュックに最低限の着替えと洗面具、暇つぶしの文庫本数冊を詰め、所持金とパスポート有効期限を確かめて成田空港へ向かった。性格上の不可抗力によってチェックイン時間ぎりぎりに到着。出国フロアのATMで海外引出用の新生銀行の口座に資金をつめ、チェックイン手続きと手荷物検査を受ける。海外に行くのは今回で4度目なので、この辺の雑務では迷うことはない。と思いきや、中国東方航空の規定で、ライター(手荷物でも預かり荷物でも禁止)と歯磨き粉(一定量以上の"液体"の持ち込み禁止)を没収されてしまう。僕は朝と夜は歯磨き粉をたっぷりつけて歯磨きをしないと駄目なたちだから、これはかなりショックだった。中国東方航空には歯磨き粉を用いた爆発テロの被害経験があるんだろうか?ていうか、そもそも歯磨き粉は液体だろうか?歯磨き粉の液体性には、僕の気づかない潜在的セキュリティホールの匂いをほのめかすような何かがあるんだろうか?

 唯物論的歯磨き粉について考えながら僕は搭乗口へ向かい、その途中で夕暮れ時の赤いスペクトルを浴びる中国東方航空の航空機を空港の大きな窓の向こうに見つけた。中華風BGMと若干のアンモニアの臭気が漂う機内に乗り込み、エコノミー・クラスの青色のシートに腰を下ろしたのは出発予定時刻15分過ぎだった。

 

出国〜中国でトランジット(上海空港ロビーに泊まる)

【2012年8月3日】

 僕が乗った中国東方航空の便は3時間ほどのフライトを終えて、上海にある浦東(プートン)国際空港に着陸する。現地時間は19時ごろ。この空港ロビーで夜を明かし、翌日の昼に別の便へ乗り換えることになっていた。おそらく日付をまたぐためか、一度イミグレーションを越えて中国国内へ入国しなければならず、このトランジットが僕にとって初めての中国本土上陸となった。しばらく空港ロビー内をぶらぶらと歩き回ったあと、今夜の寝床を確保しておこうと、寝心地の良さそうなベンチを探すことにする。まだ夜9時前だったと思うが、空港内は中国最大都市の空港と思えないほどしんと静まりかえっていて、一方であちこちに散らばるベンチは、香港のチェクラプコク国際空港ほどではないにせよ、それなりの数の"宿泊者"がすでに陣取っていた。市内に出てホテルに泊まらずに空港内で野宿することが恥ずかしいと急に思い始めて(当たり前だ)、できるだけ端の方のベンチを確保。その手すりに自転車用のチェーンロックでリュックを繋いだ。

 寝る前に小腹に入れるためのサンドイッチか何かをファミリーマートあたりで入手しようと考えたが、空港内の店舗では人民元しか使えないことを知る。僕はこのとき、成田で両替した200米ドルと余りの若干の日本円しか持っていなかった。経験上、あと常識で考えても、国際便が到着するような空港なら米ドルくらい使えて当たり前、東アジア圏なら日本円すら通用するんじゃないか、という考えは浅すぎたみたいだった。機内食は食べたわけだし、サンドイッチとミネラルウォーターを買うためにATMで手数料を払って人民元をおろすのはバカバカしいと感じて、翌日昼の便の機内食まで断食を貫くことにする。

 

 

トランジット〜ドバイ空港到着(昆明空港/飢えと乾きとシャットダウン)

【2012年8月4日】

 ようやく乗り換え便の搭乗時間が近づいてきて、出国手続きカウンターをフライト一覧のボードで探す。昆明でもう一度乗り換えて、夜7時すぎにはドバイに辿りつけるようだ。

 諸々の手続きを終え、イミグレを越えて、自分の搭乗口付近でもう1時間、暇をつぶさなければならない。金が無いため前日の夜から飲まず食わずで、頭がぼーっとしてくる。文庫本を読もうとしても30分で5ページも進まない。何も生産的なことが考えられず、脳が人間としての機能をシャットアウトしている感じがする。人間の生存本能というものはすごいもので、体内にストックされた残りエネルギー量に応じて自動的に出力を調節する仕組みがあるのかも。ベンチに深く座って前かがみになり、ただ行き交う中国人旅行者たちを眺め続ける。資本主義化した社会主義者というプロトコルを纏った御年4000歳の眠れるサバイバーたち―――みたいに見えてくるが実際には家族と親族と仕事の内側で生きる普通の人々だ。ようやく乗り込んだ機内で20時間弱ぶりの食事をとる。エコノミー・クラスの粗末な機内食がこんなにおいしいんだと初めて知った。断食は最高のグルメかも。

 2度目の乗り換え地である雲南省昆明の長水国際空港はその名に宿命的な大雨に晒されていて、それと同じくらい宿命的に僕は、またもや若干のイレギュラーと遭遇。機材トラブルか何かで搭乗予定の便が欠航になり、すでに搭乗していた僕たちは搭乗口の待合室へ連れ戻された。振替便は未定だそうだ。大多数の中国人客は配られた弁当をかっ食らい、わずかの白人客は大きな身体に不安そうな表情、唯一のアラブ人客は自前のマットを敷いて地面に頭をこすり続けている。

 やがて空港職員が現れ、外に出るための特別パーミットを発行するから希望者は付いてくるようにと告げて、やっと出航かと希望を抱いた僕たちにため息を吐かせた。いい機会だし空港の外観を見てみたいと思って僕は彼に付いていった。パーミットの希望者は僕以外は全員中国人客だったようだ。

 昆明長水国際空港は思ったより巨大なターミナルで、上海浦東国際空港の比ではないほど賑わっているように見えた。素粒子くらいランダムに動きまわる中国人の群れを交わしながら、なんとか僕は外へ出ることができた。もう雨は上がっていて、路上には中国人民とまったく同じ数のタクシーとバスと自家用車が駐車している。空港の外観は東アジア圏外からの外国人旅行客に中国の民族的イメージを喚起させるためのオリエンタル・デザイン。頂点からゆるやかに裾野に広がる三角屋根を戴き、壁面にはアナログに波打つオブジェが無数に這っている。一時その外観を見続けて、iPhoneのカメラで何枚か写真を撮り、喫煙所にいた人にライター(成田で没収されていた)を借りてタバコ(ほぼ1日ぶり)を吸い、搭乗待合室へ戻ることにした。

 戻って少しした頃に出発決定の報せがあり、待ちかねたドバイ行きの機内へ乗り込む。エコノミー・クラスの座席やその機内食をこんなに切望した一日は、たぶん人生で初めてだっただろう。ほんとうに何も持っていない時にはわずかなものでも満ち足りることができるという、学ばないに越したことはない教訓を手にして5時間ほどのフライトをしのぎ、なぜこんなに時間をかける必要があったのだろう、やっとやっとアラビア半島ドバイ首長国の地面を踏むことになった。

 

ドバイ1(空港から市内へ/運河と渡し船のファンタジー

【2012年8月5日】

 現地時間午前3時、成田出発から30時間を要してドバイ国際空港にたどり着いた。砂漠に屹立するはずの摩天楼はまだ見えない。

 僕が降りたドバイ空港のターミナルは、テレビかネットかどこかで見たような巨大でモダンな代物ではなくて、かなりこじんまりとした、第三世界然とした古ぼけた作りだった。どうもLCC向けの古い方のターミナルだったみたいだ。

 入国管理所のゾーンは(深夜だから当たり前だが)、わりに閑散としている。一方で、白装束の民族衣装に身を包んだイメージ通りのアラブ人を何人か見かけて、少しわくわくする。パスポートにスタンプを押す係のスタッフもそのような衣装で、こんなラフ(に僕には思える)でサンダル履きの格好で仕事をする入国審査官は滅多に見ることができないだろう。しかし、少なくとも、中国や東南アジア諸国やイタリアの空港職員と比べてしっかりしているというか、白装束をきっちりと着こみ、外国人に与える印象を客観視してコントロールしようとしているような、スマートな印象を受けた。

 メトロの始発時間まで1時間ほど、ロビーのベンチに座って暇を潰そうと考えたが、空調が効きすぎていて、半袖半パン・ビーチサンダルの格好では寒すぎて10分も我慢出来ないくらい。正直言ってかなり凍えた。上着も持ってきていない。実際のところ、中東圏を旅行するのに上着が必要になるなんて思いつきもしなかった。

 だけど、そう、ここは砂漠の国である。外には天然の暖房が誰かの思し召しによって準備されている。そういうわけでロビーの出入口から外に出てみれば、思った通り、いや思った以上にむっとした熱を帯びた空気の塊に捕らえられることになった。まだ夜明け前なのにかなり暑い。40度はあっただろうと思う。初めて体験する中東の暑さは、東南アジアの熱気や、日本の夏のじめじめとした蒸し暑さとはまったく違うものだ。からっとしていて、それでいて今まで経験したどの暑さよりも暑い。ほんとうに暖房の中にいるような感じだ。

 メトロに乗って旧市街の中心部、オールドスーク近くにある安宿にチェックインする。受付にいたアフリカ系の若者はフレンドリーだが、ここで初めてのアラブ式交渉術のレッスンを受ける。「中東では全てのものに値段があって値段がない」とは、日本にいてさえ耳にするフレーズだ。彼と何度か値段の言い合いをして、1泊120ディルハム=約2400円で泊まることにした。スイスやドイツ並だろうか。バックパッカーとしての経験からから考えるとかなり高いが、ドバイ最安は交通の便の悪い郊外にあるユース・ホステルの100ディルハムだと聞いていたので、ダウンタウンならまあこんなもんだろうか、という判断。

 部屋に入って、荷物を下ろし、そのままベッドに横になる。時差ぼけと疲労が6時間の睡眠を僕に強いたあと、昼過ぎに起きてシャワーを浴び、腹をふくらますため外出することにする。

 ドバイの正午過ぎは信じられない暑さ。信じられない暑さに思わず笑ってしまう。46度という気温、さらにこの日は、風がかなり強く吹きつけていて、まるで全身に熱風のドライヤーを浴びせられているような感覚だった。強風によって街全体が砂の霧に覆われていて、遠くに見える新市街の高層ビル群は、instagramでセピア処理のフィルターをかけたようになっていた。

 しばらく散歩するが、ラマダン中ということでレストランや食堂はどこも開いていない。それどころか表を歩く人自体ほとんどいない。日中のうだるような暑さにくわえて断食月間とくれば、外に出るメリットなど何ひとつ無い。考えて見れば、まあ当然だろうか。宿の辺りで唯一営業していたのはマクドナルドとケンタッキー・フライドチキンのみ。多くの旅行者と同じように、せっかくの海外旅行でのファースト・フードはなるべく避けたいと思うけど、多くの旅行者と同じように、足に力が入らないほどの空腹を前にしてはささいなポリシーは機能しない。グローバリゼーションの恩恵によって、日本を発つ直前とまったく同じメニューをここドバイで腹に入れて、また街歩きを再開する。

 人影のまばらなオールド・スークをひやかし、猛スピードで行き交う車に轢かれそうになりながら片道4車線の道路を渡って(人の通行は少ないが車はやたら多い)、市内を伝統的地域と新興のビジネス・リゾートエリアに真っ二つに切り分ける運河に行き当たった。

 この運河には渡し船があって、アブラという名前で呼ばれている。20人ほどが乗れる、モーターで動く木製の小さな舟で、料金は片道1ディルハム=約20円。乗客が集まって満員になるまで待って出航する。反対岸に着くまでおよそ5分足らずだが、この舟に乗るのがなんとも心地いいのだ。河から吹き上がる冷たい風は汗を乾かしてくれるし、きらきらと反射する水面は砂漠の国にいることを忘れさせてくれる。河の向こうには全身で輝く高層ビルが見える。空にはもやのかかった太陽が浮かび、大気中に舞い上がった砂々に光を当てて空全体をノスタルジックなスクリーンに変えている。アブラに乗っているときは、ドバイ全体がマジック・リアリズムの世界に思えてくる。これがほんとうに楽しすぎて、これ以降も何の目的もなく何度もこの舟に乗ることになったのだった。

 

 

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