ベガスでロシア人を撃つな

【読書録】氷山の南(池澤夏樹)

氷山の南

氷山の南

 

 

フィクショナルと呼ぶしかないレベルでタフな少年、アイヌの血を引くジン・カイザワが、南極海での氷山曳航プロジェクトにのぞむシンディバード号に密航し、混乱と耐えられなさに対する耐性を身に付けるストーリー。

マオリの少年画家と出会うことで密航を決意し、その密航がバレると持ち前の現状把握・解決能力を発揮して船内の有力者に認められ正規の船員となる。プロジェクトに敵対する勢力の本部を偶然訪れたり、精神世界の境界を発見するためにマオリの少年とともにオーストラリアの大地と身体的極限状態における内面の大地をさまよい歩く。確かにシナリオとしては幸運に恵まれすぎるご都合主義の物語が展開されるが、そのこと自体は別に大した問題ではないと思う。この小説の本質は、冒険活劇ではなくジンの精神的成長の物語であり、一種のビルドゥングスロマンであるからだ。

 

科学をもって自然を管理しようとする氷山利用アラビア協会とシンディバード号、および社会の”冷却”を目論む自然信仰者アイシストとの対決が描かれるが、それが安易な文明批判であるという見方は正しくないと思う。

クライマックスではアイシストの工作活動が実を結び、氷山曳航プロジェクトを完遂させないことに成功するが、それはシンディバード号プロジェクトの完敗を意味するわけではない。船内の科学者らの言う通り、またジンの考える通り、勝負を五分五分に持ち込んだにすぎない。

シンディバード号のインサイダーとして活動するジンは、アウトサイダーであるアイシストと相まみえることで、自身のスタンスに対する混乱を獲得する。ジンが獲得した混乱とはつまり、安易に主義に傾くことなく非決定のまま悩み続けるという精神的タフネスをもたらすものだ。「未来はいつだって混乱の向こう側にある」というジンの考えからすれば、未来への希望とも言えるかも知れない。

 

もし著者である池澤夏樹が読者に対して何か批判を投げかけているとするなら、それは安易な文明批判や安易な文明礼賛に傾くな、ということではないだろうか?

小説の中で心理学者ジャック・ジャクソンは、両者のインサイダーとして両勢力の対立にフェアなパワーバランスを持ち込んだ。彼は小説内における池澤の分身のように思える。池澤は『氷山の南』を書くことで、物語の力を利用して、現実の両勢力に対してフェアなパワーバランスを持ち込もうとしているのかも知れない。