生命の特殊性に関する覚え書き、あるいは寿司ではない何か

生命は地球に固有の現象だが、それ自体はどうということはない。

確かに昔は僕も、この広い宇宙に地球だけに生物がいるなんて奇跡はありえないと思っていた。

しかし、そもそも生物・生命という概念自体に普遍性はあるのか?オリジナルだが大した思いつきではないという可能性もあるのではないか?と、最近は思うようになってきている。

例えば、人類数百万年の歴史の中で、寿司という料理を発明した集団は日本民族だけである。膨大な時間の内部で試された膨大な組み合わせにおいて、スペイン人もアラブ人も北カフカス人も他のどの民族も到達し得なかった、日本人だけが見出した唯一のパターンを出現させた料理だ。その点において、寿司の発明は確率としては奇跡的な出来事だったと言える。

しかし、それが何だというのか?

カレーはインド人固有の発明であり、フィッシュ&チップスはイギリス人固有の発明である。それらの料理は、他のどの民族集団も発見することが出来なかった。

それらの料理はその出現において独創的かつ奇跡的である。だが世界の成り立ちについて考える時、そのことを殊更に特別視するべき理由はない。人類の発展、生活の仕方、自然や環境との関わり方、およびそれらの様式の構築と崩壊に関して考えるとき、より重要なのは料理(あるいは食事)という概念の方だ。

寿司に主観的な愛国心を結びつけるのは個人の自由だが、人類の客観的な本性を証明する根拠にはなりようがない。

寿司、カレー、フィッシュ&チップスとは、いわば代替可能な発明であって、寿司が出現しない歴史があったとしても何ら不自然ではないし、そのことでは何の問題も起こらなかっただろう。

同様に、生命という概念も巨大なる宇宙にとっては代替可能なアイディアのひとつでしかないという可能性もあるのではないか。

生命という大きな器の中にヒトやサルやカブトムシやアルファ・ケンタウルス星人がいるのではなく、生命という概念の外側に、さらに大きくカバーする器があるというのでもおかしくはない。

地球における有機生命体とは料理にとっての寿司でしかなく、生命が入った器を僕たちはまだ発見していない。宇宙はものすごく大きくてありえないほど広いから、生命としての僕たちにとっての同類(つまり、寿司にとってのフィッシュ&チップスのような同類)は必ずいる。しかし、生命が入る器を見出さない限り、それと認識することは原理的に不可能だ。

宇宙にとって生命とはありふれた存在ではなく、日本にしか寿司が存在しないのと同様に、地球にしか生命は存在しない。しかしながら、寿司のない国にもその代わりとなる料理が存在するように、生命のない星にもその代わりとなる何かがいるのだ。