ベガスでロシア人を撃つな

働かなくても飯は食えるけど

 例えばの話をすれば、作家という仕事は僕の考える労働の範疇には当てはまらない。色々な雑務や面倒事を片付けたり、気乗りしない時でも顔をぴしゃんと叩いて仕事をしなければならないことがあったとしても、文章を書くのが本来的に好きであることに変わりないのなら、それは職業化された趣味に他ならない。

 ある人はコントラバスの演奏を趣味としている。その人は地方銀行の支店に勤めることで収入を得ており、コントラバスで飯が食えるほど上手ではないが、コントラバスに触っている時に最も楽しい気持ちになれるし、最も感情のリアリティを感じることができる。それと同時に、楽器の練習が辛いと思うこともあるし、できることなら練習なしで上手く弾けるようになりたいと思う。疲れ切ってしんどい時も、やらなきゃ、という義務感から練習を始めることもある。それでも、その人は自分が本来的にコントラバスが好きだということに疑いを持たない。何より大切な趣味なのだ。

 その人が作家と違って趣味で飯を食うことができないのは、この社会のなりたちに全面的に責任がある。2013年の日本に屹立するこの社会の内部では、コントラバスで収入を得ることに比べれば文章で稼ぐことはそれほど難しくないし、チャンスも多い。単に今僕たちが生きる社会が作家の方を比較的多く需要しているし、コントラバス奏者はそれほどではないというに過ぎないのだ(といっても目糞鼻糞だろうけど)。

 僕にとっての労働とは、こういった好きなことではないことを嫌々やることで生活の糧を得る活動を意味する。確かに作家の中にも文章を書くとこがそれほど好きじゃない人もいるだろうし、あるいは職業的に文章を書くうちに好きでなくなった人もいるだろうと思う。それでも彼らにとってそれは、水道管を埋めるためにシャベルで縦穴を掘ったり、油臭い厨房で汗をかきながらクォーターパウンダー・チーズをこしらえる活動よりは楽にこなせる仕事だ。だからそれを職業にし、収入を得る手段として選ぶ。たまたま好きになったものが金を稼ぐ手段としても使えたから使っているだけのことだ。そこには幸運の形をした救命ボートがあり、幸運のボートに乗り合わせるという幸運の前では些細な努力の泡などあって無いようなものだ。このようなラッキーな存在に対しては、僕たちはある種の畏れを感じることはあるとしても、一体どうやって尊敬の念を持つことができるだろう?

 だから僕は、嫌々ながら仕事を続けている人々に全面的なリスペクトと憧れを抱く。できれば家で寝ていたいのに一発奮起し、バイパスの追い越し車線上や満員電車の中であらゆる希望の屑を払い落としながら職場に向かい、やりたくもない仕事を自分や自分に関わる人たちのために粛々と片付ける人々に全面的なリスペクトと憧れを抱く。

 そして今僕は、十人並みにもタフになれなかった自分を卑下し彼らを尊敬することで、出来損ないの自己を埋め合わせようとする自分を見つけてしまっている。