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純文学って何なのか、あるいは生と死と性と精子について

ピンチョンの『スロー・ラーナー』を読んでいて、こんな文章に行き当たった。

"ある創作が純文学であるかどうかは、最終的には死に対する姿勢によって決まる"

これってどういうことなんだろう。

「純文学」というのは、英語のserious literatureの訳語だ。つまりは、そのまんま、マジな文学のことを意味する。人間にとって最終的にマジな問題というのは、つまり「生と死」の問題だ。この場合の「生」というのは「死」の逆説と見ることができるから、結局のところ純文学とは「死」に対してシリアスに向きあう文芸作品、ということになるのだろう。

ピンチョンはこの後つづけて、"ファンタジーとSFが若い読者にあれほど受ける理由の一つは、人が死すべき存在であるということが、ほとんど問題にならないからではないだろうか"と言っている。ファンタジーやSF、僕が思うにミステリなども、たしかに死とシリアスに向き合うことを避けている。これらの創作ジャンルでは、死は単に可逆的であったり、人為的にコントローラブルであったり、舞台装置として繰り返し浪費されたりする。高級フレンチの料理人は職業的な敬意を込めて「シェフ」と呼ばれるが、マクドナルドの揚げ物係のアルバイトにはそのような敬意は払われない。優れた純文学というのが、新世紀が開かれて10余年経ってもいまだ重要なものとして受容され、需要されているのは、おそらくこういうことなんだろう。

もちろんSFやファンタジーにも文学的に高いリスペクトを集めている作品もあって、それらはやはり、死を真剣に見つめているものなのだろう。空想的な科学技術やマジカルなパワーを道具にして生と死の本質を深く抉っているような作品は、おそらく純文学的な価値基準で評価されていて、つまりは両者のマトリクスが多くの部分で一致しているということなんじゃないか。

多くの純文学作品においてセックスが重要なものとして扱われるのも、死に対して背筋を伸ばすうえで避けようのない営みだからなんだろう。セックスという行為は明らかに生のメタファーであり、生は明らかに死のメタファーだ。つまりセックスは生死に対して核心的な意味をもたらすアクターなのだ。しかも精子を通して。これはダジャレではなく、下品な言葉遊びでもない。偉大なSFがタイムリープを通して生死の核心に迫っているのと同じなのだ。

一流の作家の仕事っていうのは、虚構のキャラクターを死に向き合わせることで(あるいは向き合わせないことで)、普段の生活で気づかないような世界のシャドーについて読者に示唆を与え、心を震わせる作業なのだろう。たった一人の読者であってもそのような影響を与えることが出来たなら、その作家の仕事は報われている。まあ、それだけじゃ食っていけないからもっと頑張るだろうけど、商業的な成功が文学的な成功の延長線上にあるのは疑いえない。

 

というか、この本、わずか12ページ目にしてこんな大事な情報がさらっと書き捨てられている。

スロー・ラーナー (トマス・ピンチョン全小説)

スロー・ラーナー (トマス・ピンチョン全小説)