ベガスでロシア人を撃つな

ヒット曲が出せない世の中への贐(あるいは需要分散装置としてのインターネット)

 

 「ヒット曲」というのは、人の選択肢が少なく、人々の共通点が多かった時代にしか成立しないものだった、ということですか。まあ、まったくその通りだろうと思う。

 小室さんはかつて「ヒット曲の作り方を熟知してるから自分はそれを量産できる」ということを言っていたけど、小室さん本人ではなく時代のほうが変わったから作れなくなったと。というか、これは「ヒット曲」という概念を成り立たせていた大衆がもはや存在しなくなったってことだ。侍が存在できない時代にサムライスピリットとかのたまっても何の意味も生じないのとまったく同じで。

 「人の選択肢がありすぎて、共通点が少なすぎる」時代をもたらしたのは明らかにインターネットで、これは音楽が売れない原因だけじゃなく、テレビ、映画、その他娯楽の商業的な衰退すべての原因だろう。

 人の共通点が多いっていう状況は、コミュニケーションの回路が一方的で閉鎖的な系として存在していたということで、人々の集合的な意識の濃淡がはっきりしていた時代だったということ。インターネットによってコミュニケーション回路が解放されて、集合的な意識がばらばらに分解されて全体的な密度が薄まり、どこをすくっても当たりが出せなくなった。小室さんの言う「ヒット曲の出し方知ってる」ってのは、つまり密度の濃い部分がどこなのか知ってるってこと。「ヒット曲の根本概念」というのが集合的意識の密度の濃い部分という意味だったとすれば、それが崩壊して「ヒット曲の出し方」も雲散霧消したというのは当然の結末だろう。

 インターネットは自然状態(というかマスコミ支配的な状態?)においていくつかの方向に偏っていた人々の意識を分散させる、ある意味世の中を複雑化させる機能があるということで、つまりは、インターネットってのは大衆意識のエントロピーを増大させる効果を持っているということだ。これはネット選挙とか他の現象にも応用できる考え方な気がする。

 インターネットがある限り、90年代以前のような国民的歌謡曲(及びスター、ヒーロー、アイドル)はもう出てこないんだろう。もう「国民」はひとかたまりじゃなくなったんだから。こればかりはこの技術決定論を退けるのは難しいと思う。ヒットチャートの方も同様で、100万人がCDを購入して3000万人がその曲を好んでいるという状況はもう戻ってこない。購入している人達以外はその曲を誰も知らないという現在の状況がこれから先もデフォルトであり続けるはずだ。ヒットチャートが、僕たちがよく知っていて共感できていた過去の形に戻ることはもうありえないのだろう。

 まあ、それの何が問題かというと、個人的にはべつに何の問題もないのですが。現在と未来という時間的展望に目を向ければ、音楽業界にノスタルジーという一つの小規模な分散的ジャンルが生まれたというだけの話でしかなく。あとは、代わりに歴史へと旅立つ国民的ヒット曲なる概念にRIPを送る最後のヒット曲でも出てくれば、「ヒット曲」も安らかに眠れるんじゃないだろうか。