カルマとしての怪獣と外敵としてのモンスター

 怪獣映画における日米での描かれ方の違いについての思いつき。

 日本の怪獣映画といえばゴジラで、アメリカのモンスター・パニックスリラーといえばキングコング、エイリアン、あるいはエメリッヒ版ゴジラ

 日本型の怪獣は人間が産み出した悪を隠喩しているとよく言われる。ゴジラ原水爆実験の副作用として生まれたものであり、原爆投下のメタファーであるとか。これはつまり、元はといえば人間が産み出したものであって、たとえ怪獣が町を破壊し、暴虐の限りを尽くすのであっても、それに対峙する人間の心には100%の被害者意識は生じえないということだ。というよりむしろ、怪獣の悪行が人間の心の奥底にある罪悪感を増幅させる。人間の側の悪行のツケであるという意識が排除できないせいで生まれる、怪獣の破壊行動に対する諦めにも似た絶望感と恐怖心が、日本型のパニックスリラーでは描かれている。つまり、それは明らかに、敗戦のトラウマについての描写だ。

 対してアメリカのモンスター映画は、怪獣を突如現れた自然的恐怖として描く、つまり弱肉強食のルールを想起させるようなものになっている。人間は食物連鎖の頂点に立ち、日常において他の生物に食われる心配をする必要ないため、ふだんは弱肉強食のルールを意識することはない。でも、ほんとは常日頃からそのことを意識すべきなんじゃないのか? という精神がアメリカのモンスター映画の根底にはある。そもそもアメリカという国自体が人間世界における実力のピラミッドの頂点にいるために、アメリカ人の深層心理には、こういうカウンター的な恐怖心が潜在してるんじゃないか。もちろん、大勢に受容される芸術というものは必ず人の心に内在するものに刺さるものであるはずだから(知らない星の知らないエイリアン同士の戦いを見せられても「知ったことかよ」としか思えないだろう)。

 しかもアメリカのモンスター映画における敵は、その発生において人間に何の責任もない100%純粋の悪として捉えられる。だから必然的に、人間側=善/怪獣=悪の構図に収まることになる。敵のモンスターがどれだけ強大で、人間がどれだけ無力だとしても、人間たちは諦めることはない。正義は人間の側にあるからだ。敵のモンスターは倒されるべき悪の化身であり、人間は奴を仕留めることにのみ義務を負い、罪悪感が彼らの頭をよぎる可能性は原理的に言って全く無い。アメリカ映画がモンスターと戦うときにその人間の心に生まれるものは、日本型の善悪入り交じった絶望感と違って、純然たる恍惚だ。

 つまり、日本型怪獣映画では、人間は突如出現した怪獣だけでなく、自らの心の中にある見て見ぬふりしてきた罪悪感、あるいは自らの決断と行動の積み重ねとその重みに対して戦っている。これは過去から現在にまで伸びてくる重厚長大な歴史と時間の質量と戦ってるわけだから、いわば人知を超えた人知とも言える巨大なものと戦っていることになり、人間はそういう状況では普通、絶望に捉えられることになる。

 対してアメリカ型怪獣映画におけるモンスターは純然たる外敵、食物連鎖の高次に位置する外敵であって、どれだけ強敵であっても、それはあくまで人間がよく知る自然の成り立ちの一部に過ぎない。すでに我々が知るルールの中での戦いであり、よって勝つ手がかりはいくらでもあり、人間はそういう状況では普通、絶望ではなくもっと前向きのモチベーションを得る。チーターに追われるシマウマが天を仰いで地面に伏せたりせず、生存に向け全力で全速力を尽くすように。それが日本型怪獣映画とアメリカのそれとの根本的な違いじゃないかと思う。