ベガスでロシア人を撃つな

人の名前と性格の関係って

自分の名前がその人の抱く世界観、あるいは人格そのものを形作ることってあるんだろうか。

本や映画などのフィクションに触れるとき、僕はどうしても登場人物たちに名付けられた名称が気になってしまう。作者の自意識や無意識が避けがたく反映されてるんじゃないかと。トマス・ピンチョンのキャラクターたちの名前には明らかに意図的なメッセージが背負わされているし、ミラン・クンデラは架空の人物に架空の名前を付けるのが恥ずかしいとさえ言っている。また、ラノベの登場人物には作者の(あるいは読者の)未成熟な闇の魂に寄り添うがごときダークな名前が恥ずかしげもなく輪廻付けられる。

仮にこれらのことを、何にでも因果関係を見出さずにいられない表現者の煩悩によるものと片付けるとして、現実に生きる現実の人についてはどうだろう。

僕についていえば、結果的に名前通りの性格を身につけてしまったような気がしてならない。誰もが冗談を言いたくなるような(イジりたくなるような)間抜けな苗字に、決して溶け合うとは思えないプレップな、または堅物を連想させるような名前がぶら下がる。僕の姓名はこんなふうに構造化される。対して僕が歩んだ20数年間の生命の方はといえば、先天的な愚鈍さと後天的な知りたがりの間に横たわるジレンマの解消にもがいて足踏みを繰り返してきたというもの。今ではそれが、自分の名前にぴったりだとしか感じられなくなっている。

とはいうものの、自分を語ることを通して切り分けた人生の内容物が自分について語られるときの記号とシンクロしてるって、こんな作為めいた話もないという気もしてくる。

こんな感じに、ピンチョンとクンデララノベとオレだけを材料に何となく考えてみたけどどうなんでしょう。