ベガスでロシア人を撃つな

アーティストかエンターテイナーか

 ある表現が、攻撃的で先進的で、まだ誰も見たことのない形で、社会のフロンティアに生まれ落ちる。その前衛的な表現は、それを己の世界認識システムに取り込むことのできない大勢を置き去りにして、一部のセンシブルな人々にキャッチされ、芸術とラベル付けされる。一旦カテゴライズされた表現は文化の流通経路に乗り、その発信者や発信形態のヴァリエーションを増やしながら社会全体にしみじみと染み込んでいく。やがて、前衛的だったために芸術と呼ばれた表現は、大勢の社会構成員の世界観にインストールされ、一般的な文化となる。

 文学も音楽も絵画も映画も、みんなこのストリートを通って地位としての文化という椅子にたどり着いた。漫画もちょうどそうなったところだし、アニメやインターネット発信のいくつかもそうなりつつあるように見える。これはもっとミクロな表現、例えば「SF」とか「シュールレアリスム」とか「ヒップホップ」とか、あるいは宇宙人はタコ足だとか、ユダヤ人は陰謀によって歴史を操作しているとか、アメリカの夢とその代償としての贖罪だとかのイメージなんかが、人々の共通認識として文化を形づくるデファクトになるような事象にも当てはまる。

 芸術が単なる狂人の独白で終わらないためには、その内に自己増殖していくヴァリエーションの萌芽を持っている必要がある。優れた芸術は、凡百を寄せ付けない奇妙さと、そのコピーが繰り返されるたびに表層を虹のように変えながらも確固として微動だにしない本質の変わらなさとを、併せ持っていなければならない。

 だから僕が思うに、一発屋に終わらず、長期に渡ってしぶとく生き残る表現者は、自分がどちら側にいるか意識的に把握して、その認識に沿って自分の才能を開発する努力をしているんじゃないだろうか。自分が前衛を担っている人間なのか、後衛を担っている人間なのかを。アーティストなのか、エンターテイナーなのかを。