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黒人の日本征服(小説)(ドラフト)

時は戦国時代、300あまりの小国が小さな日本列島を群雄割拠し、列島の覇権を争い合っていた。

ある時九州は肥後の小国、阿蘇藩に流れ着いた小さなガレー船があった。乗っていたのは世にも奇妙な黒い肌をした大男が10人程ほど。彼らはその大きな図体にもかかわらず痩せこけ、元々黒い肌の上からでも分かるほど全身に垢がこびりついていた。

彼らをまず最初に発見したのは宇土の漁師だった。3,4名の漁師は黒人たちを家に招き入れ、治療をし、食事を与えた。回復した黒人たちははじめ漁師に雇われて遠泳漁業に従事し、台湾や中国、朝鮮、南西諸島の交易商人と人脈を作った。

やがて彼らの腕力と快足に目をつけた商人が、飛脚として使用するために彼らを漁師から買い取る。彼らは本州遠征を幾度と繰り返す中で、近畿や関東の有力者と顔見知りになり、恐れられつつもその実力を認められる。この頃には日本へやってきて7年が経っており、すでに日本語もほとんど完璧い操れるレベルになっていた。

時の宇土城城主、名和顕忠はこの黒人たちを戦力として活かそうと商人から買い付け、剣術と武術を習わせたが、決して侍として育てようとはしなかった。やがて名和が佐々木に倒され、さらに小西氏が宇土の政権を握る中で、黒人たちは城の要域に入り込むまでになっていた。

黒人たちの実質的な主導者だったバラゼル(和名を戊吉)は、加藤清正が実権を握るにあたって関白付きの要職につき、文禄元年の第一回朝鮮出兵にあたっては加藤軍の実質的な指揮を任され活躍。帰国後、人民も財政的にも疲弊しパニック状態に陥っていた加藤下の肥後藩でクーデターを起こし、戊吉は肥後藩の藩主についた。この頃秀吉とも懇意になり、名黒の姓を与えられつつ(この時まで加藤は黒人たちに姓を与えていなかった)、秀吉直下の黒人兵団を自らの師団に与えられて、下総と武蔵の狭間の裏安に領土を与えられる。

この頃から黒人たちは武力の充実に努め、裏安の少ない資源を有効に追加いながら、宇土時代の人脈を頼って南蛮貿易航路を開拓し、財産を蓄積させた。日本人でなく、しかも真っ黒い肌と大柄の体格を持つ自分たちに支配される裏安の民どもの不安や恐怖感を黒人たちは十分に理解しており、南蛮貿易で蓄えた資本を使って交通を整え、商人街を建造し、課税を極端に軽くし、水呑百姓や下流商人、また戦に敗れ財産を失った武士の起業を積極的に促進した。南蛮の商人や宣教師も現地の物品の輸入を条件に積極的に受け入れることで、裏安藩は当時の日本国内、いや世界的に見ても有数の経済的・文化的水準を誇るに至った。

豊臣が倒れ、徳川家康江戸幕府を開くにあたって、裏安の名黒氏は関ヶ原での貢献を認められ、下総の一部を含む60万石を与えられ、国内でも最大級の勢力となる。慶長11年、徳川二代目秀忠の時、名黒三代目惣流はクーデターを決行。南蛮貿易で仕入れた大砲と長距離火縄銃で新宿の戦いを圧倒的強さで制し、徳川幕府を打倒。

しばらく幕府は空位状態が続いたが、惣流はその間に朝廷との結び付きを強め、じきに征夷大将軍に任ぜられるがこれを断り、京都御所の近くの烏丸に一族で本拠を移し、新倉に姓を改め城を建造、城主となる。長らく徳川幕府は空位状態のまま、日本は実質的に天皇が治める国家となった(これは非常に奇妙なことである、本来名目上はこの国は天皇が治め、実質的に徳川が実権を握っていたのだが、ここに来て名目的な実権の実質を皇室が握るという倒錯した権力構造となったからだ)。新倉六代目(名黒戊吉から数えて九代目)の平政は、皇室出身者と婚姻関係を結び、この時日本史上初めて、黒人の皇族関係者が誕生した。そして当時ですら大方が予想したとおり、黒人の天皇が誕生することになる。

嘉永天皇と称するこの黒人天皇は、新倉家の伝統的な戦術である南蛮との相互交流を推進し(これは実質的に日本のグローバリゼーション史の幕開けと解釈されている)、グアム、ハワイの王国を経由してアメリカ大陸西海岸に初めて官僚を派遣する。これは嘉永5年のことである。折しも米政府はマシュー・ペリーを指揮官とした極東遠征を計画しており、この黒人の日本官僚七助の到来には大きな財政的インパクトを感じ、丁重なもてなしのうえ、首都ワシントンへ招き入れた。