ベガスでロシア人を撃つな

【読書録】グレート・ギャツビー(スコット・フィッツジェラルド)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 「翻訳者として、小説家として」という題の訳者・村上春樹による後書きが完璧で素晴らしすぎるので、あえて感想を書き残しておく必要もないような気持ちもあるが、ほんの少し自分の言葉でもメモしておきたいと思う。

 映画のレッドフォード版『華麗なるギャツビー』、ディカプリオ版『華麗なるギャツビー』、そして小説の『グレート・ギャツビー』は、基本的には同じプロットを共有しながら、それぞれに受け取ることのできる味わい方が異なる。ふたつの映画版は、フレーム一枚も見逃さまいと観客を駆り立てるその美麗なる映像表現から、映画という表現の枠組みについての深い洞察を観た者に与えるのだが、それと同じくらいにと言うことが断じてはばかられるほどに、原作の『グレート・ギャツビー』は、「小説というものはかくあるべし」という信条を更新せよと読者に残らず命じるような大傑作だ。

 村上も言うように、フィッツジェラルドの小説は一度読んで長い時間がたった後、時間差で効いてくる性質を持っている。僕は高校の頃に初めて読んで、今回で3回目か4回目か、、、ようやく、心の底から人に薦めたい作品リストに載せることができた気がする。読者としての経験値が上がり、小説というものが何であるかということがぼんやりとでも見え始めた頃に、ようやくその真髄を掴み始めることが可能となるような、フィッツジェラルドはそういった奥行きの深い作家だということなんだと思う。

 小説および物語を作ることとは、なまの事実を適切な順番に並べ、それらを意味付け、関連付けることで全体としてひとつの意味を成すように構成する行為だ。作中頻繁に使用される「〜が〜した。まるで〜が〜かのように。」「〜は〜だった。まるで〜だと言わんばかりに。」というレトリックは、まさにその通りだが、出来事をあるやり方で注目し、ひとつの面を切り取ることで、人によって見方によってさまざまに見せ得る事実の諸相に対し、特定された微妙で繊細な意味を持たせる作業なわけだ。これは小説でしか成し得ない表現方法だから、映画でも舞台でもそれらの脚本でもない「文学」というものを上手く作りたいのなら、また上手く味わいたいのなら、この要素を徹底的に追い求め、全力を尽くして達成/享受するよう努めなければならない。

 だから、村上がこの小説を作家人生の一つの集大成と目標づけた理由はよくわかる。このグレート・ギャツビーはそのような総合的な意味で文学の模範と言えるからだ。