ベガスでロシア人を撃つな

1986年のハレー彗星(小説)

the pillows の楽曲『僕らのハレー彗星』に着想を得て書いた短編小説です

 

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 巨大な地震がまるでライヴハウスのように列島を揺らし、映画のCGで見たような津波が人と大地を押し流し、原子力発電所が漫画のオチみたいに煙を上げて吹っ飛んだ。あの3月に続く2011年は他のどの年にも似ていなかったけど、悪魔がかき混ぜたシチューみたいなカオスに陥った部屋を片付けながら、僕はハレー彗星の来なかった1986年を思い出していた。

 拾い上げたのはプリンスの『KISS』のCD。バベルの塔よろしく大胆に倒壊したタワー・ラックに収まっていたはずの一枚だ。当時10才だった僕には随分ませた音楽に聞こえていた。ラジオから流れてくるこの曲を聞きながら、海に面したあの歩道で、まだ星座たちがきらめいていたあの夜空を見上げて、僕は優子の手をしっかりと握って、決して離さないつもりだったのだ。

 1986年、僕たちが10才だった頃、優子はいつも僕の一歩先を行っていた。大体においてそういうものだ。女の子は男の子より早く身体が成長し、より早く精神が成熟し、より早く人生の耐えがたさに怯えるようになる。女の子はつねに男の子の先を行く。遊ぶ場所も、読む本も、観る映画も、聞く音楽も。あらゆるお愉しみを。あらゆる苦悩を。僕は主観的な実感としてではなく、客観的な概念としてそういうことに勘づいていた。だから、優子が夜のラジオで外国の知らない音楽を聞いていても大した驚きはなかったし、何がいいのか分からないままそれを一緒に聞くことにも抵抗はなかった。

 

ハレー彗星を見るのよ! 絶対に!」

 桜の花びらが空中で気まぐれなダンスを楽しむ4月のある日の帰り道、優子が自信たっぷりに宣言したのを覚えている。もちろん当時の僕はハレー彗星なんて言葉は聞いたこともなかった。一方、優子は新聞を見て知ったらしい。なんだよ、新聞なんて読んでやがるのか。またひとつ劣等感のポッケを開けられた僕はショックに沈み、近くに転がっていたスチール缶を思いきり蹴りつけて指先を痛めた。じんじんと痺れる足先に春の陽気が注ぐ中、優子は目を細めてそれを嘲笑ったあと、いつもの調子で演説をぶちはじめた。

ハレー彗星は要するにね、でっかい流れ星なの。太陽の周りをダエン系に好転してて、76年に一回地球に近づくの。今年がその一回なのね。76年に一回だよ。だから絶対に!」大きく一息すって目を細め、「今年見なきゃいけないの」。

86歳の時じゃだめなのかよと無粋に聞き返したりはしなかったが、優子は「今年」と「絶対に」を何度も何度もつぶやいていた。肩まで伸びた髪を左右に振りながら。赤いランドセルを揺らしながら。そんな感じで前を歩く優子の後ろ姿を見ていたら ――何度目だったのだろう―― なんだか分からないけどこの子が喜ぶことに付き合ってあげたい、僕はそういう気持ちになっていた。

 

 その日から毎晩、僕たちはバッグにお菓子を入れて、自転車のカゴにラジオを積んで、海辺の歩道のひらけたところで縁石に腰掛けてハレー彗星の出現を待つ遊びを始めた。

 35歳になった今は当然知っている。彗星は見えたとしても流れ星なんてものではなく、一晩じゃほとんど動かない大きめの星でしかないことを。だけど当時の僕にとっては、結局目にすることのないその彗星はでっかい流れ星であるはずだった。なぜって、優子がそう言ったからだ。まだ見ぬ天体ショー。長い尾を引く宇宙ヘビ。優子は毎晩のように新しい知識を仕入れてきて、嬉しそうに僕に披露した。普段よりワントーン高い声で。天文知識の乱れ打ちは彗星だけにとどまらず、次第に星座の見方や宇宙の成り立ちにまで及ぶようになった。並走するおおぐま座としし座に例の巨大な三角定規、それにビッグバンとエーテルと平行宇宙。

 今考えれば眉唾ものの情報も大いに混じっていたけど、僕にとってはこの時間がずっと続いてほしい、いや、ずっと続くべきだという感覚が確かであること以外は何でもよかった。ハレー彗星が現れないことだってどうでもよかった。家から持ってきたプリングルスをかじって、ラジオから流れる無数の洋楽を聞く。夜空を見上げながら優子といろんな話をする。星空を駆けまわるみたいなフワフワしたこの時間が終わることなく続いていくべきなのだ。確かにそう考えていたと思う。

 

 優子が学校を休み始めてからもこの遊びは毎晩途切れることなく続けられた。

 もともとクラスが離れていたから優子が学校にいないことに違和感を覚えることは少なかったが、それでも、どうかしたのと聞きたくなる衝動は夜ごとに募っていった。あの頃の僕の不躾な性格を考えるとよく我慢していたものだと思う。あるいは以前と変わらない優子の軽妙さにブレーキをかけるのが怖かったのかも知れない。ハレー彗星はついに今夜もお披露目されず、優子お手製の宇宙理論は次々と展開され、プリングルスは次々と開けられ、ビルボード・チャートは次々と奥深くまで潜っていったのだ。『The Greatest Love of All』、『True Colors』、そして『KISS』。

 優子は特に、このプリンスの『KISS』がお気に入りみたいだった。「だってこの曲、笑っちゃうでしょ?」と言ってその通りに笑うのだ。僕はといえばこの曲の何が良いのかも、何が笑えるのかも分からなかったが、優子が楽しそうにしてくれるというだけで大好きな曲になった。ラジオはずっと『KISS』を流してればいいのに。ハレー彗星はずっと出てこなければいいのに。

 6月に入って、雨の降る日が多くなった。雨が降っても僕は欠かさずいつもの場所に行くようにしていたのだが、優子の方は現れなかった。来ない優子を傘をさして待ちながら、遠くからやってくる人影に気づくたびに心を浮かせ、それが背の低い知らない中学生だと分かって落胆する日々。泥水に濡れてかじかむつま先の日々。それでも優子は晴れた日にはちゃんと来ていて、この彗星発見ゲームを始めた頃と同じように優子は優子のままだった。ペプシを豪快に飲み干しながら、昨日読んだらしい「バスカヴィル家の犬」のあらすじを嬉しげに語り聞かせるいつもの優子。夜空の奥底にひきこもって出てこない彗星を想像してケタケタと笑い合う、おなじみの楽しいひととき。しかしその分、一緒にいないときの寂しさとつまらなさはどんどん増していった。乾いた寂しさはときに生煮えの感情へと揺れ動き、しつこく滴る生ぬるい雨にも、学校に来ない優子にも、姿を現さないハレー彗星にも僕はいらだちを感じるようになっていった。彗星が出てきてくれなければこの集会がずっと続くと思っていた僕も、この頃にはその出現を願うようになっていて、それはある種の祈りに近いものだったのかも知れないと今では思う。ハレー彗星が顔を出してくれさえすれば状況はいっぺんに好転するのだと。この空高くに居座っているはずの、引っ込み思案なラッキースター。頼れるものは他に何もなかった。

 しかし迫り来る7月を前にして、無慈悲な雨は嬉々としてその仕打ちを増やしていった。気づけば毎日が雨降りだったのだ。僕には地球全体が雨雲に覆われているんじゃないかという気がしてならなかった。黒い雲に四方八方を塞がれた青い地球。逃げ場のない囚われの惑星。何かに閉じ込められていた優子と何かを閉じ込めていた僕。あの頃の僕にとって、この種の感情は初めての経験だ。確かに、はっきりと感じられた。未来が具体的に塗りつぶされていく感覚。世界が終わっていく感覚。もう、ハレー彗星は現れないんじゃないか。

 

 ついに晴れたのは6月最後の日だった。玄関先には緑のコケが生え揃い、太陽のツマミは中火から強火に動かされ、人々は衣替えを終えていた。そして海辺の歩道のいつもの場所に、晩ご飯を終えたあとのいつもの時間に、優子は黒いワンピースを着てやって来た。雨降りの季節以前に当たり前だったいつものシチュエーション。ひとつ違ったのは、緑の自転車に乗った優子がブレーキを強く引いた途端、急に感情のブレーキを手放したかのように泣き出したことだ。

 僕はうろたえることも、訳を聞くこともなかったと思う。何を思ってかは覚えていないが、僕がその時やったのは、ただそっと優子の手をとって縁石に腰掛けたことだけだった。女の子と手を繋ぐ恥ずかしさをあえて乗り越える勇気を見せたとか、ましてや優しさとか愛とかいう高度な意思表示じゃない。10才の僕にはそんな感情のディテールは無かったはずだ。もっと追い込まれた形の、それしか出来ないという自然発作的な行動。そのあとにやったことも、ラジオをつけてスプライトを開けて、夜空を見上げることだけ。いつものルーティーン。いつもと違ってそれが途方もなく淋しく感じられたのも、結果的な自分の無力さに気づいていたからに違いない。今でもそう思う。

 どうしようもない沈黙を破ってくれたのはラジオから流れてきたあの曲だった。86年のヒットソング。贅肉を削ぎ落した骨組みの救世主。プリンスの『KISS』。言ってみれば、それは僕たちにとって待ちに待ったあのでっかい流れ星だった。

 偶然の音楽に救われたと思った。そういうものだと思った。状況に対して無力なときの祈りは期待通りには報われず、それでも意外な方向から救いはやってくる。夜空の裏側のハレー彗星じゃなく、地上のステーションから飛ばされた電波のリズム。もし35歳の今だったらこの曲を聞いて笑うことなんてできないだろう。35歳の知識も感性もそんな作用を引き出しはしない。あの時の音楽は、あの小気味良いビートの流れ星は、紛れもなく僕たちのためだけに届けられたのだというつもりでいた。

「今年はもう彗星は見れないんだって」

そうつぶやいて僕の手を強く握り返した優子の横顔を覚えている。頬まで垂れた前髪がうつむく姿、鼻頭をこする仕草、髪から生えたみたいにぴょこんと出っ張った耳の影までしっかりと記憶に残っている。ハレー彗星が見れなくて泣いたわけじゃないことくらい分かっていたけど、動揺した僕は、またもや報われない祈りにすがった。空を横切った本物の流れ星に祈りを送ったのだ。76年後、気の遠くなるような2062年の星空の下で、もう一度ハレー彗星がその姿を現す日まで、ずっと二人でいられますようにと。

 

 その6月30日を最後に優子の異変は幕を閉じた。優子は7月からまた学校に来るようになったはずだし、夜毎の集まりが終わったあともしばらくは、2人で下校する習慣が途絶えることもなかったと思う。優子は水泳教室をやめて英会話スクールに通い始め、10月の運動会ではリレーのアンカーとしてぶっちぎり、相も変わらず『エイリアン』の続編や「お嬢様ルック」がどうのという話を続けていたはずだ。あれだけ心から憎んでいた梅雨がいつ明けたのかも思い出せないくらい昔の話。25年。四半世紀の時空の歪み。気づけばそういったのもが、嫌味ったらしい梅雨のラリーのように、招かれざる津波の咆号のように、あの6月の原初的な瑞々しさを洗い流していた。やがて手に馴染むようになる愛の萌芽を、今では信じられない祈りの効用を洗い流していったのだ。

 今から振り返れば、ハレー彗星が不在だった1986年とあらゆるものが表面化した2011年はどこも似ていない。一方の年はやがて来る戦後経済の超新星爆発を控えて色めき立ち、もう一方はその輝きのパーフェクトな消失に直面した年だった。いや、これは社会の話じゃない。1986年には優子が隣にいて、2011年にはいなかったのだという話だ。個人的な話。運命が引き裂く悲劇のお別れなんかじゃなく、誰の人生にもある緩慢な離別のエピソード。実を言えば、優子には会おうと思えば会える。その場合は彼女の夫と、確か二人いる子供たちとも一緒に会わなければならないのだが。

 2011年の3月12日。会社で一夜を明かして帰宅し、見たこともない混沌に塗り替えられた自室で立ちすくんだ日。僕はガラス戸を開けてベランダに出て、3月のまだ冷たい風に気の済むまで顔を叩かせたあと、『KISS』のCDを慎重にラックへと戻した。