ベガスでロシア人を撃つな

【中東一人旅 2012】③エジプト編(2012年8月13日~8月28日)

 

11日目 アレキサンドリア(2012年8月13日)

ノルマンディー・ホテルは、使えるといったWi-Fiは使えないわ、トイレットペーパーは無いわ、ファンはなくて暑すぎるわ、停電はするわで最悪なので、近くのユニオン・ホテルへ移る。あと洗濯も行う。
 
今日はノルマンディーの人と言い争ったり、ホテルを移ったりで疲れたので何もしなかった。久々にインターネットにつなぐ。
 
晩飯は初めてコシャリを食べる。エジプトの庶民料理で、パスタ・ライス・レンズ豆など炭水化物に炭水化物を重ね、その上からケチャップをまぶした丼ものみたいな食べ物。日本円で50円くらいで食べられるので、腹持ちのコストパフォーマンスが絶大。
 

12日目 アレキサンドリア(2012年8月14日)

2日連続でだらけたので、この日はホテルから出てちゃんと観光しようと決める。
といってもアレクサンドリアは特に見るべきところもなさそう。もともとエジプト入りのために安い飛行機チケットがあったから来ただけで、アレキサンドリアに何日いようとは決めていない。
 
とりあえずアレキサンドリア博物館に行ってみようと決心。ホテルから徒歩でホレイヤ通りを歩き、到着。
ここはアレキサンドリア沖で見つかった主にローマ時代の物が展示してある。すべて海の中にあったものと考えると少し感慨深いが、ヨーロッパの博物館で見れるものと対して変わらず、と思った。Google時代に見るべきものとして、有名観光地や発掘品の博物館は、足を運ぶ価値がないのかもしれない。
 
その後、有名なアレキサンドリア図書館へ行く。こちらの方が地元のアーティストの作品が展示してあって面白かった。
 
家の近くに戻ってきてマックで昼飯を食べていると、そのマックの店長だという男に声をかけられる。
泊まってるホテル名を言うと、自分の兄弟がそのホテルのオーナーだと言い、その兄弟に頼んで宿泊代を半額にしてあげると言ってきた。
明らかに怪しいが、もしこの人について行ってみても断ることができると考えたし、コーヒーをおごってくれると言うし、どうせヒマなので、付いて行ってみた。
コーヒーをおごってくれて飲んでいる時など、携帯を買った方がいい(紹介してあげる)などと言ってきたり、兄弟に渡すから半額の宿泊代を今渡してくれなどと言ってきて、案の定と思った。
無視して一旦ホテルに戻って確認してみると、大慌てしだして面白かった。ホテルのフロントに「この人は本当に兄弟か?」「俺の宿泊代を半額にしてくれると言っているが本当か?」など聞いてみるが、すべて「No」の回答。すると、その男はコーヒー代を払えないと言い出し、20ポンド払えと言ってくる。断ると、だんだん15ポンドまで値下げしてくる。普通はコーヒーはいくらくらいだ?と他の人に聞くと3ポンドと回答があり、そしたらあの店は高いんだと言い出す。
結局ホテルの警備の人が出てきて、スタッフの兄ちゃんとじいさん3人がかりでその男を追い出す。その男は半泣きで追い出された。
警備のおじさんはノープロブレムだ、向こうで座ってなさいと言ってくれ、日本語で「キヲツケテ、ヨイタビヲ。エビ、サカナ、タイ」と言ってくれていい人だった。
一番怒って熱心に追い出してくれたじいさんにチップを渡す。
ヒマだから、わざと付いて行って面白い体験ができたけど、他の人に迷惑をかけるから次からはやめとく。
 

13日目 アレキサンドリア(2012年8月15日)

アレキサンドリアは1日中クラクションが鳴り響が騒がしい街だ。
しかし、ここはカイロとはうって変わって静寂の町であると地元のひとたちは言う。
蚊は服も来ていなければ、バックを肩から下げてもいない。とても身軽だ。故にもろく壊れやすい。人だけが重たい荷物を背負っている。それが重ければ重いほど遠くへ行けるようになり、そして大地と混ざり合う。
 

14日目 アレキサンドリア→カイロ(2012年8月16日)

マスル駅にタクシーで向かい、昼の1時の列車に乗ってカイロに向かう。なんと10エジプシャン・ポンド(=約\50)で乗れる列車だった。これが、定刻通りなら3時間で着くはずが、10時間もかかったんだから。安かろう悪かろうどころの話じゃない。
 
こんな激安の列車に乗ってくる外国人などいないらしく、車両中の人が俺の席に集まって珍しい見世物(俺だ)を見学しに来ていた。一方俺はハリウッドスターになったような気分だった。
最初に座っていた席では近くの席の家族と触れ合って、特に子供になつかれて楽しかったんだけど、中東の習慣なのか知らんが、床に落とした食べ物全部食べさせられてめんどくさかった。エジプト人はとにかくコミュニケーションが濃い。
 
1時間くらい列車が順調に走ったあと、2時間くらい謎の理由で停車した。その間にエジプト人の若者3人に激しく絡まれて、お互いのことを話したり外に出て写真を撮ったりして遊び、終始爆笑していた。このワイ、アリ、ザブルの3人は何でも盛り上げてしまう。
 
彼らと一緒に写真を撮り、Bluetoothで送ってくれと言われ、iPhoneなのでできないことを伝えたかった言葉が通じない。そこで英語出来る人いないか?と集まってきていた車両のみんなに聞くと、11歳の少年が手を挙げてくれた。彼ヤフヤを通訳にして、車両のみんなといろいろな話をする。ワイは日本人と結婚したいから紹介してくれだの言ってくる。君が日本にこられたら最高の美人を紹介するよと言うと大盛り上がり。
 
その後は主にヤフヤと英語で会話をする。彼とはとても仲良かった。ワイ達はクリスチャンだから社内で飲酒・喫煙しまくっていたが、彼は「タバコは体に悪い」と俺に止めるように言ってきたり。日本は危険だ、YouTube津波を見たと言ったり。原発事故のことを言っても通じなかった。
 
英語はアメリカ映画を見て覚えたと言っていた。俺の想像だけど11歳でアメリカ映画を見まくっている子供は、エジプトの普通の子供とは話が合わないだろうし、普段乗ってる列車にひとりで日本人が乗ってきて話し合えたら楽しかったんじゃないかと思う。
 
日が暮れて、電車ではないので電気が通っていないらしく、車内はめちゃくちゃ暗くなっていた。さすがの庶民エジプシャンたちも疲れたらしく、ワイは荷物棚の上で寝ていた。ほんとにカイロに着くのか? ていうか、そもそも本当にカイロ行きの列車なのか? 不安に思えてきた。
 
ヤフヤが日中に水を飲んでいたので、ラマダンを破ったねと言うと「静かにしといて」と言っていた。列車が遅れる事はそう多いことでは無いらしく、ヤフヤは何度も心配しないでと言ってきたし「僕もビビってる」とか言ってきて面白かった。
 
ヤフヤ親子は途中の駅で降りて行ったが、その際ニカブを被ったヤフヤママが水とジュースをくれ「気をつけなさい、カイロは危ないから自分で自分の身を守りなさい」と言ってくれた。ヤフヤは「またエジプトに戻ってきても友達でいて」と言ってくれた。(教えてもらったフェイスブックのアカウントは、後で宿についてからWi-Fiに接続して探してみたがヒットしなかった。残念だ。)
彼らのおかげで7時間遅れの電車での退屈もしのげたし楽しかった。
 
カイロに着くと地下鉄でタフリール広場へ。デモとかやっていてかなり騒々しい。道のあちこちに穴が空いていたり、焦げ付いた建物とかあって革命直後のカイロに来たんだなという実感が湧く。
目当ての宿が空いていなかったので、疲れていたので適当な宿にチェックインして睡眠を取る。
 

15日目 カイロ(2012年8月17日)

昨日の夜中にチェックインしたキングパレスは虫とかが不快だったので、午前中にチェックアウトして退散。サラ・インというホテルに移動。屋上のプレハブ小屋みたいな1室を借りる。実際、屋根はあるが壁はなく、代わりに薄茶色のビニールシートを垂らすことで壁の代わりとしている部屋だった。プレハブですらない。
 
ピラミッドに行こうと思っていたのだが、代わりの宿を探したりで疲れたので、ケンタッキーで昼食を食べて、エジプト考古学博物館に行くことにする。
 
考古学博物館には数百台のミイラの棺があり、さながらファラオのバーゲンセールのようだった。見たかったツタンカーメンのミイラは、今は東京で展示中とのことで不在にしていた。なんで、わざわざエジプトくんだりまで来たのに、ちょうどいいタイミングで日本に行ってるんだよ。
 
そして他のものを見ていたが、すべての展示品を見終わらないうちに閉館と言われて追い出されてしまった。この時まだ4時前だったが、入り口には確かに入場5時までと書いてある。周囲の他の日本人観光客も文句たらたらだった。
 
その後はメトロでオールド・カイロ地区に行ってみるも、特に面白いと感じるものはなかった。店舗の人たちはみんなテレビでロンドン五輪のサッカーを見ていた。
 
夜はタフリール広場のデモを見に行って、帰り道に捕まった客引きから絵画を買ってしまった。その手法について非常に腹が立ち、いろいろ悩んだが、メモしないでおく。
 

16日目 カイロ(2012年8月18日)

朝からピラミッドを見に行った。
 
タフリール広場近くのバスターミナルから行こうと思ったが、なかなかバスが見つからず困った。適当に何人かに声をかけると、誰かに、そこのバスで行けると言われたのでそのバスに乗って待っていると、別のおじさんがこのバスは違うから降りろと言う。
直感でこのおじさんが正しいように思えたので従った。ぜんぜん別の場所を教えてくれ、よく見ると確かに地球の歩き方にもそう書いてあったので乗車する。そのおじさんは、話してみると教師をしているそうで、直感で信頼して良かった。エジプト人の言う事はあてにしないほうがいい。
 
経験上、欧米ならガイドブックなしでも旅行できるだろうが、発展途上国では現地の人々はでたらめしか言わないので、逆にガイドブックしか信用しちゃいけない。
 
トリビアの泉で取り上げられてた、ケンタッキーのスフィンクス前店で昼食をとった。
 
ギザのピラミッドはなかなか面白かったものの、べつに写真で見た通りといった感じで、これといって感銘は受けなかった。インスタ用にとった写真くらい。それよりも、ピラミッド周辺をうろちょろする物乞いや土産物の押し売り、記念写真詐欺の連中がうっとうしくて仕方なかった
 
俺の写真を写ルンですで勝手に撮ってしつこく売りつけようとする親子にはマジで切れてしまって、ピラミッドのふもとにあったレンガのような石を持ち上げて、逃げないと投げつけるぞ、と言って脅してしまった。それを言うと素直に退散していた。
 
帰りのセルビス(公共の路線バスと同じルートを(たぶん勝手に)走る私営のマイクロバス)の乗り場もまた分かりづらく、探すのに疲れてヘトヘトになったので、宿に帰って泥のように眠る。
 

17日目 カイロ→ルクソール(2012年8月19日)

今日は昼に起きて、宿をチェックアウト。トルゴマーン・バスターミナルへバスのチケットを買いに行く。
途中、少年たちの相手をしたり、写真を撮らせてあげたりして楽しかった。Facebookにアップすると言っていた。カイロでは道ですれ違う人、すれ違う人から声をかけられ、有名人になった気分が味わえた。東アジア系の風貌の人間がよほど珍しいのだろう。
声をかけられるときは大体、「ニーハオ」と挨拶してきて、その後に「Where from?」と聞いてくる。とても違和感があるが、中東では同じアラビア語を使っていても国籍が違うのが通常なので、そういう感覚で喋っているのだろう。
 
その後はバスでイスラム地区へ行った。シタデルという城は、5時クローズのはずが到着した3時の時点で閉まっており入場できず。入り口の係員に文句を言うが、まぁいつものエジプトといった感じでシッシッとされる。
 
適当にぶらついていると、明らかに観光地ではない地元のエリアに侵入してしまって迷った。低い屋根の平屋が並び、地元の子供達がサッカーをして遊んでいる。この地元エリアは、静かに朽ち果てた町といった感じで感銘を受けた。途中、どこかの家の前で民族衣装を着た人たちが黙って集まっていて、葬式か何かだったんだろうか。とにかく、砂埃が西日に照らされて印象深い土地だった。宿に戻ったあとで地図を見てみても、自分がどのエリアに迷い込んだのかは分からなかった。
 
道がわからなくなってかなり困っていたところ、親切な人が声をかけてくれて、カイロ中心部の方向を指さしてもらい、宿に帰ることができた。
この日はフルマラソンくらいの距離を歩いたんじゃないかと思う。足が痛い。
 
その後トルゴマーン・ターミナルへ行き、「王家の谷」があるルクソール行きのバスへ乗る。バスターミナルでサンドイッチを食いながら待っている時に韓国人バックパッカーの女の子に話しかけられ、同じバスに乗るとのことで一緒の座席に座る。
 
窓から見た砂漠の夜空が素晴らしかった。しかしなぜ深夜に英語の映画を流すんだ。途中、両サイド見渡す限り砂漠しかない場所でバスが停まり、おじさんが降りていき、そのまま真夜中の砂漠の奥深くに歩いて消えていったのが気味悪かった。そんなところに帰る家があるのか?
 

18日目 カイロ→ルクソール(2012年8月20日

10時間ほどバスに乗り、朝方にルクソールに到着。
バスターミナルに着くと客引きがやってくるが、タクシーと交渉中に韓国人バックパッカーの子はいなくなっていた。
 
結局セルビス(ミニバス)に2ポンド払って連れて行ってもらう。運転手が5ドルで町を案内すると押し売りしてきたのは、エジプト人の外国人向け商習慣は分かっているのでもはやいいが、断ると、それならハシーシュはどうだと言ってきたのは少し驚いた。
 
宿にチェックイン。とても清潔で安く良い。1週間滞在していると言う日本人の女の子がいた。旅慣れていると言っているが、抜けていて大丈夫かと思ってしまう。
 
夜行バスでろくに寝られなかったので夕方まで爆睡。起きてスーパーで買い出しをする。宿に帰ってこの日記を書く。そろそろ夕飯を食べに行こう。
カバブの店で晩飯を食う。量が多い上に茄子のサラダがまずくて完食できず。その割には高かった。3週間ぶりにビールを飲む。ハイネケン。うまかった。
 

19日目 ルクソール(2012年8月21日)

昼過ぎに起きて行動開始。
 
カルナック神殿に行くために駅前でミニバスをつかまえたかったが、どれもカルナック神殿へは行かないと言う。近くにいたタクシーと交渉するが、折り合わなかったため、立ち去るフリで気を惹こうとしたが乗ってこなかった。本当に正直な言い値だったのだ。
もとの場所に戻るのも癪なので、そのまま歩いて神殿へ行く。かなり暑く、熱中症気味になる。
 
カルナック神殿はなかなか感銘を受ける遺跡で、レベルは違うがアンコールワットの感動に質的に近い。
 
神殿の内部は薄汚れた野良犬が気怠そうに闊歩しており、数千年前に存在しただろうこの神殿の当時の賑わいを対比的に鮮明にさせる。
高さ30mほど?の巨大な柱が数十本も並ぶ、乾いたホールのような場所で一休みする。この柱の影で王子が女中を口説く、みたいな場面を想像したりする。
 
また歩いて帰り、途中のコルニーシュ(海岸沿いの通り)のベンチに座り、ナイル川に浮かぶ夕日を見るために待機。水面が夕日に照らされ美しかった。
エジプトに来てから、目にしたすべての光景は4千年前の人々も同じように見ていたのだなと感じられ、不思議な時間感覚が芽生えてくる。
 
マクドで久々に生野菜を食べた。長いあいだ野菜を食べなくてもそれほど体調に影響はない。
 
ルーマニアのアイセックの女子大生殺害事件や、シリアで日本人女性ジャーナリストが殺害された事件をツイッターで知り、いろいろ考える・・・。
要するに、海外のリスクは外国にあるというより自分の内側にあるんだと思う。イラクでテロリストに殺害された香田証生の件を見ても、いま自分がいる外国での見られ方ではなく日本での見られ方を意識した振る舞い、他人からどう見られるか・見られたいかを過剰に意識した振る舞い、外国にいながら自己の関心のフォーカスは完全に日本にあるような精神状態は、危険なリスクへの突入度合いを格段に上昇させる。
自分の旅のスキルを自覚し、その成長目標とのギャップを少なめに見積もること。とにかく無理をしないことだ。
 

20日ルクソール(2012年8月22日)

朝、ウェストバンクを回ろうと思っていたが、昨日の日射病のせいか起きれず。昼過ぎ起床に。
 
起きて外でタバコを吸っていると、暇ならということでオーナーのムハンマドの客引きに付き合わされる。
 
バスターミナル前のツーリストインフォで日本人を発見し、ムハンマドがツアーや宿泊、空港へのタクシーを勧める。関西弁のおじさんで、おっとりした気さくな人だったが、彼のオファーを断っていた。
 
オーナー曰く「彼は誰も信用していない。私は他のエジプト人と違って、60ポンドなら60ポンドと言うよ。私が誠実なのは君にもわかるはずだ」と愚痴をたれていた。
 
一方、僕の方はおじさんと晩飯をおごってもらう約束をしていた。
宿の屋上のくつろぎスペースで2~3時間くらい、酒を飲みながらネットを見て過ごし、近所のアラブ料理屋でおじさんと合流。おじさんは保険会社に勤めている人だった。
中東の料理屋はだいたいそうだが、人間の残飯狙いの猫が住み着いており、おじさんと多めに頼んで残りを猫にあげて餌付けしていた。
 
宿に帰ってからはスタッフ日本人の宿泊者と皆で酒を飲んだ。
この宿は親父と二人兄弟の3人家族で運営されており、オーナーのムハンマド親父は日本人にはコバヤシと名乗っている。息子のうち、兄はドレッドでマリファナを四六時中吸っており、ドイツのBMWの工場で働いていたという理由から、イスラム教徒なのに普通にビールを飲んでいた。弟のアマルは気のいい若者で、英語もうまく滞在中はなにかと親切にしてもらった。
 

21日目 ルクソール(2012年8月23日)

今日はルクソール神殿へ。ルクソールに来て初めて早起きし、宿の朝食を食べた。トーストとヨーグルトとバナナだけだったが、おいしかったので明日も食べたい。
 
滞在しているナイル川東岸から船着き場へ歩き、西岸へフェリーで渡る。料金は1ポンド(約5円)。乗客はほとんどいなかった。だるそうに座っているスタッフがいたが、会計係でもなく特に何もしていなかった。
 
ナイルの川面を眺めながらゆったりとしていたら向こう岸に着いた。自転車をレンタルしてルクソール神殿へ向かう。
途中で自転車が壊れてキレそうになる。借りるときは親切にしてもらった自転車屋のにいちゃんから修理費としてレンタル料金の倍額を請求されそうになり、さらに怒りが増す。明らかに自分の乗り方のせいで壊れたわけではないと確信していたので、結局交渉して修理費は払わないことにした。元のレンタル料金は払った。35℃以上の酷暑の中、5キロくらい自転車こぎまくった挙げ句のこのザマで、ルクソール神殿に付く前から心身が疲れ切った。
 
新しい自転車に替えてもらい、草と砂と太陽しかない道を爆走し、メムノンの巨像を横目に見ながら通り過ぎ、入山口?のようなところを炎天下でひたすら自転車こいで、王家の谷の入り口に到着した。テーマパークの入り口のチケット売り場のようなところでチケットを買う。俺が買ったチケットは3箇所までしか見れないらしい。閑散期なのか、観光客はかなり少なくてしょぼく見える。
 
パークの入り口からは有料のミニトレインが走っているが、ミニトレインは片道5E£もかかるとのこと。アレキサンドリア→カイロの貧民列車と同じコストじゃないか。金を使いたくないので歩いて移動する。特に見るべきもののない石灰色の不毛の谷をえんえんと進む。
 
まずはツタンカーメンの墓に行った。内部はひんやりしている。僕が入る時に日本人の老夫婦とすれ違ったが、「君学生さん?思ったほど面白くないよ」といらん情報を入手。行ってみたら、まあでっかい箱が鉄柵に囲まれた場所に配置してあるだけだったが、雰囲気は感じ取れる。
 
その後、ハトシェプスト女王の墓に行く。崖を切り抜くようにして作られた巨大な神殿のような墓。ここは昔テロリストによる日本人観光客含む無差別殺傷事件が起きた場所だ。規模の壮大さとエジプトの乾いた日差しを借景として、アラー・アクバルを叫びながらAKを連射するTシャツ姿のテロリストと、発狂して逃げ惑う麦わら帽子をかぶった団体観光客のシーンの幻影を見る。
 
王家の谷のあまりの広さ、墓と墓の移動に疲れてだるくなり、3つめの墓を見ずに帰ることにした。高い方のチケット買わなくてよかった。
 
ブーメランホテルに戻り一旦休憩したのち、スーパーへ買い出しに出かけると、バイクに2人乗りした謎の少年たちが声をかけてきて、スーパーまでバイクに乗せて送ってくれた。どうせバクシーシを要求してくるだろ、と思っていたらほんとうに送り届けてくれただけで、びっくりした。暇だったのだろう。バイバイを言って別れた。
 
スーパーで買った菓子パンと魚の切り身?のようなやつを食べた。屋上でタバコを吸いながらゆっくりしていると、2人組の早稲田の学生が上がってきた。2学年下で、どちらも同じ商学部で、共通の知り合いも何人もおり、かなり意気投合して仲良くなる。東南アジアでも、ベネツィアでも、UAEとヨルダンの国境でも、どうしてこんなに近い繋がりのある早大生と出会うんだろう。
 

22日目 ルクソール(2012年8月24日)

昨日の王家の谷をさまよう旅に疲れて昼に起きて、屋上で音楽を聴きながらだらけていた。アマルと少し会話をする。
 
日差しはかなり暑いが、それが短時間なら、なかなか気持ちいい。今日出発するはずだった日本人の女の子ユリナが体調悪くし、翌日一緒にダハブに行くことになった。
 
彼女は良い宿だと思っていたのに、印象悪くしているようだ。宿のオーナーに変な薬を飲まされたとか言っていた。ずっと騒いでいる。
 
母親に相談したらしく、なぜか俺がskypeで母親と話すことに。あと彼女のTwitterが炎上していた。彼女が宿の人たちに親切にされていたのに結局騙された、みたいなツイートをして、お前が旅のスキル低いだけだろ、日本人の恥、みたいな感じで叩かれていた。
 
ユリナの母親いわく、オーナーのムハンマド(小林)が宿泊客にすぐ手を出す厄介ものだと言う話がネットに書いてあるらしいが、自分が調べたところそういった情報はとくに見当たらなかった。彼女の母親はとても心配していて、良いお母さんだなとはとくに思わず、こんな甘やかされて育ったのによく中東にバックパックしようと思ったな、という印象。
 
実際、お金が盗まれたと彼女は言っているけど、彼女の勘違いではないかと思う。たった33ドルを長期宿泊者から盗むってのも変だし、仮に本当に盗んだとしても、僕の経験上、発展途上国とでは出来心レベルの悪さであり、悪人と言うほどではないかと思う。僕に言わせると、財布から33ドル盗むのも、中東や東南アジアでよくある土産物のボッタクリも、悪さレベルで言えば対して変わらない。要は対して悪くもない、仕方のないことだと思う。
 

23日目 ルクソール→ダハブ(2012年8月25日)

早朝に起きて、ルクソール駅のバスチケット窓口に行く。ダハブ行きの便はすでに満席で、ひとまずシャルム・イッシェーフ行きのバスのチケットを買った。
 
ユリナはどんどん体調が悪くなっているようだ。腹痛で日本から持ってきた薬を飲んでいても治らないので、宿のスタッフに相談したら、現地の薬を飲んだほうがいいとのこと。それでスタッフが買ってきてくれた緑の大きな薬を飲んだら、体調が悪くなったらしい。
 
オーナーのムハンマド(小林)は何か思い違いをしているようで、俺と口をきいてくれなくなった。
それでも宿の人たちはやはり悪い人ではないように思う。アマルも最後は名残惜しんでくれた。ブーメランホテルは、とても清潔で、居心地の良い宿だった。10ポンドの朝食がとてもおいしかった。ボリュームも多くて嬉しい。
オーナーのムハンマド親父も、息子のアマルも、そのドレッド兄貴も俺は好きだった。
 
バスの出発時間までやることがないので日記を書くしかない。
 

24日目 ダハブ(2012年8月26日)

前日夜中にルクソールを出たあと、シャルム・イッシェーフに昼頃到着。ここはシナイ半島イスラエルの領土だった頃に開発されたリゾート地で、ヨーロッパの富裕層がバカンスしにくるところ。
 
バスセンターはちょっと広めのガソリンスタンドくらいの大きさで、素朴な感じがする。シャルムで一泊してもいいかと俺は思っていたが、リゾート地なので物価が高すぎるのと、同行するユリナがはやく病院に行きたいとのことで、やはりダハブ行きのチケットをその場で買って、すぐにバスに乗り込むことになった。
 
ダハブに到着。有名な日本人宿に入った。なんか日本人宿は居心地が悪いような気がする。やせた穏やかな犬がたくさんいて、人を全く警戒せずに昼寝している。
 
ユリナを宿の日本人スタッフに引き渡し、救急車を読んでもらった後、宿の屋上にある食堂に行った。メニューにとんこつラーメンと書いてあるのを発見。1ヶ月もラーメンを食べてなかったので、すぐに食べたくなった。
頼んだら「賞味期限が切れているけどいいか?」と店員が言ってきた。いいわけない。代わりにそうめんをオーダー。
 
その後、少々海に入ったがすぐに疲れてリタイヤ。シャワーを浴びるが、海水が含まれていて石鹸がうまく泡立たない。
 
シャワーを浴びた後は、岸辺のレストランでチャイ2杯を飲みながら煙草を吸いつつ、読書を楽しむ。隣の欧米人の家族が猫にエビを与えていて、エビを殻ごとがっつく猫が不気味で面白い。
 
宿に戻ったら1人になった。みんなダイビングの免許講習に行ってるみたいだが、俺はダイビングの免許を取りに来たわけではない。金ももったいないし、取っても別にやらないので取るつもりもない。
日本人宿で1人になるのはなんとなく寂しさを感じる。こんなことならシングルの部屋か、他の宿にするべきだったか。
 
さて夕飯は何を食べよう。思うにダハブは、ダイビングをしない人は楽しめないのではないだろうか。ダイビングの講習仲間で仲良くなってって感じで。ひとりでぶらぶらしている日本人も少し見かけるが、仲良くなれないかな。ダハブの人たちは愛想が悪い気がする。
 
夕飯は中級レストランでかわいい猫達と戯れながら、やせた猫に餌を与えようとするのに、別の太った方がかっさらっていってしまう。やせた猫は諦めて寝転がっていて本当にかわいかった。挙句、テーブルまで上がってきて俺が残したスープをなめなめしていた。
 
ユリナはまだ帰ってこない。病院で寝ているのかもしれない。ここ数日愚痴を聞かされ、予定も振り回されて正直めんどくさくなってたので宿のスタッフに任せたのだが、俺はいかなくてよかったのだろうか。
 

25日目 ダハブ(2012年8月27日)

Twitterを見るとユリナは病院で点滴を打っているらしい。
 
今日もやることがない。
キューバセットを買って、人がいなさそうなところでちょっとだけ海に入ったら、そこはサンゴがあって足を怪我するから上がれ、とライフセーバーに怒られて、すぐに上がった。つまらない。ぶらぶらしてコシャリ屋までいって昼食を取る。
 
ここダハブでは、ダイビングやる以外にやる事はないに違いない。またカフェでダラダラ。
暇すぎるので、明日ダハブ出ることにする。
 

26日目 ダハブ→エイラット→ワディ・ムーサ(2012年8月28日)

今日ダハブを出て、イスラエルのエイラット経由でヨルダンへ入国する。
ダハブのバスターミナルで待っていると、ルクソールのブーメラン・ホテルで出会った早稲田の2人組と、他の日本人バックパッカーの人と一緒になった。彼らはエイラットを経由せず、フェリーでヨルダンの紅海に面する港町ヌエバに直接行くらしい。
 
ダハブからエジプト側の国境の町ターバーへ向かう道は、草木1本寄せ付けない不毛の山岳だった。
 
懸念していたイスラエルのへ入国は比較的すんなりと通った。イミグレで3人の検査官にヒアリングを受け、荷物を調べられた。「イスラエルでどこに行くのか?」「パレスチナに行く予定はあるか?」と聞かれ、Maybe no. と答えると、「Maybe だと許可できない。Definitely no と言ってほしい」と言われ、粛々と従うことで事なきを得た。しかし善良な日本人である僕にこんな時間(15分× 3人)かけるなら、普通のアラブ人なら一晩たってもまだ入国できないだろう。
 
イスラエル側のイミグレーションを出て、ヨルダンへの国境に向かう。エイラートで見たイスラエルは灼熱のヨーロッパ、砂漠のヨーロッパといった感じ。英語もよく通じ、通りがかりの人が(商売気なく)で手助けしてくれる。道に迷っていると子供と自転車に乗ったおじさんが How can I help you? と声をかけてくれてヨルダン国境行きのバスに乗ることが出来た。
 
ヨルダンのボーダーでアメリカ人、メキシコ人、カナダ人のバックパッカー3人組と出会い、4人でイミグレを抜けることにする。ヨルダンの入国管理官は、僕のジャパンパスポートを見るとノービザで通してくれたが、アメリカ人・カナダ人は20ドル、メキシコ人には40ドルを請求していた。メキシコ人が切れまくってて面白かった。
 
僕の方は入国検査も淡々と進んだので、先に一人でヨルダン側へ到着。紅海のさきっぽが尖る川沿いを進み、バス停を見つけた。すぐにバスが来たが、他の三人はまだ出てこないので、彼らを置いて一人でアカバの町中へ行く。
 
さて、アカバのバスターミナルで、ペトラ遺跡へのベースキャンプとなるワディ・ムーサ行きのバスを見つけないといけない。おなじみの通りアラブ人は適当なことばかり言うので一向に見つからない。昼食をとるが、どうしたものか。そろそろ日も暮れてきそうだ。心細くなる。
 
手当たりしだいに話しかけまくった結果、ようやくワディ・ムーサ行きのセルビスが見つかった。
と思ったら、ヨルダン側に入った途端、あのアラブ人のクソふざけたビジネスマインドにさらされ、数時間のイスラエル滞在がどれだけここで良かったか思い知った。
またタクシーにボられた。というか完全に犯罪まがいの騙され方をした。クソほど腹が立つ。
 
何が起きたか。アカバで乗ったセルビスは、2時間くらい走ったところの別の町中で一度停車し、大量の少年が乗り込んできて、座席の下のスペースに置いてあった謎の青色の液体をすべて運び出し、また出ていった。
 
その後セルビスはバスターミナルらしき場所につくものの、地球の歩き方に載っているワディ・ムーサのバス停の写真と全然違うように見える。
 
ここはワディ・ムーサか?とセルビスの太った運転手に聞くと、質問に答えず、「こいつのタクシーに乗れ」と言うと、建物の中から子供を抱えたやせ細った黒Tシャツの男が出てきた。
俺は怒りが抑えられず、「ここはワディ・ムーサじゃないな?お前は嘘を言ったな、違う場所に俺を勝手に連れてきたな!」とわめきまくったが、セルビスの運転手は俺の胸をどついて、I dont say, と言って去って行った。
 
国ぐるみでカモられている気がする。何かを断ると、行く先々で誰かが待ち構え、また俺をカモにする。
 
日が完全に暮れ、ヨルダンの知らない町で、真っ暗闇の中、騙されたことに気づいた。怖くて仕方ない。しょうがないので痩せた黒Tシャツの男の車に乗ることにした。
結局、そいつの運転で無事ワディ・ムーサに着くことが出来たが、道中、アラビア語の音楽を車内で大音量でかけて、子供と黒T男がカラオケしてるのに苛つき、窓ガラスをドンとぶっ叩いて静かにさせた。
 
ワディ・ムーサの第一印象は、山肌に無数の町がはり付いて、家々の光が月面のような空間をライトアップしている、美しい町だと思った。途中で連れて行かされた、暗くて乾いた町とはまるで違う。
 
宿にチェックインし、無料の夕食を出してもらった。量が多すぎて全然食べられない。宿のヨルダン人スタッフはとても優しい。今日のエピソードを話したら、一緒に怒ってくれて、写真を取っていたら警察に言うのに、ヨルダン人はそんなクリミナルな人は少ない、あなたが安全で良かったわねと言って俺を抱きしめてくれて、めちゃくちゃ泣きそうになった。
 
宿のテラスで煙草を吸っていると、昨日ダハブのバスターミナルで一緒になった早大生2人組と別の日本人が来て、合流した。彼らはバスでここまで来ていたが、途中でパンクしてスピードが出なくなり、時間がかかったとのことだった。この路線にまともな交通サービス作ったら儲かりそうだ。その他日本人の女の子2人組とも合流して、みんなでビールを飲んだ。
今朝はダハブにいて、イスラエルのイミグレを突破し、エイラットで親切にされ、ヨルダンで騙され、でもようやくここにたどり着けて、長い一日だった。
 
ワディ・ムーサは乾いてはげた山肌の中腹に位置する町。標高が高いのか、夜は気温が下がって寒い。長袖の上着を持ってきていなかったので、フェイスタオルを肩に巻いてしのいだ。中東で長袖が必要になるなんて思いもしなかった。
 
 

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