ベガスでロシア人を撃つな

【中東一人旅 2012】⑤ギリシャ・トルコ編(2012年9月10日~9月27日)

 

39日目 アテネ(2012年9月10日)

ゲストハウスの朝食を食べ、昼過ぎに宿を出て、歩いてアクロポリスへ。また丘の上にあるタイプの観光名所なのでゴム草履でトレッキング。ドンキで買ったゴム草履の耐久性すごい。
 
アクロポリスの丘をひたすら登っていくと、明らかに古代ギリシャ風の大きなゲートが現れ、そこので観光客が渋滞していた。このがパルテノンの入り口のようだ。パルテノン神殿は残念ながら大改装キャンペーン中で、鉄の足場が組まれてクレーン車の巨大な爪先が突き刺さっており、超メカニカル仕様だった。残念だけど仕方ない。
 
アクロポリスから見渡すギリシャ市内は素晴らしく、遠くにはエーゲ海まで視界に入れることができた。アクロポリスの端にたなびくギリシャ国旗を写真に収める。
 
アクロポリスを出て、ゼウス神殿に行く途中、イタリア人のおっちゃんに声をかけられ、自分も1人だから一緒に行動しようと持ちかけられる。
日本人のサッカー選手をよく知っていて、とても楽しいおっちゃんだったので快く了解してしまった。油断していた。ギリシャと言えるヨーロッパに来たことで心が緩んでいた。ギリシャ名物の蒸留酒である「ウゾー」の有名店に連れて行くと言われ、ついて行って店のお姉さんと楽しく飲んでいたら、ありえないボッタクリ価格、おちょこ1杯のウゾーで220ユーロを請求された。ボッタクリのデブの店主は俺に金がないとみると、お前は学生だからこれだけでいいと有り金全部を要求してきた。
 
イタリア人のおっちゃんもグルだったのだ。ツーリストポリスに連絡するぞと脅すと、店主のオヤジはののしり言葉とともに金を返してきた。うんざりして、16時過ぎには宿に戻り、飯も食わずにふて寝した。
 

40日目 アテネ(2012年9月11日)

ゲストハウスのレセプションで長距離バスのチケットオフィスの場所を聞いてラリッサ駅へ。明日のトルコ・イスタンブール行きバスのチケットを買いに行く。イスタンブールは、エルサレムと並んで今回の旅で最も行きたかった場所だ。三大宗教の交差点であるエレサレム、東西文明の交差点であるイスタンブール、など、僕は異なる価値観の交差点に旅行先としての魅力を感じるようだ。
 
チケットオフィスは宿から2kmくらいの場所にあるはずだが、道に迷ってしまい、1時間以上かかってしまった。ギリシャの人はどうも話しかづらく思ってしまう。別にみんな忙しそうにしているわけではないのだが。
 
54ユーロでイスタンブール行きのチケットをゲット。聞いていたより安く、昨日の悪徳ウゾー野郎とのバトルによる損失を少し取り戻した気分。
 
アクロポリス博物館へ地下鉄を使って行った。アテネの地下鉄は2004年のオリンピックの時に作ったらしく、清潔でとてもきれいにしている。
 
博物館の最上階から見るアクロポリスのパノラマはなかなか。博物館で面白かったのが、紀元前に作られたパルテノン神殿の使いみちの変遷だ。もともと、古代ギリシャの神々を祀る神殿として作られた。その後、キリスト教徒に占領されて教会になり、十字架も建てられた。オスマン・トルコに占領された後はイスラム教のモスクとなり、十字架が取り除かれて代わりにミナレットが建て増しされた。そして、20世紀初頭にギリシャナチス・ドイツの占領下となった後は、爆薬庫として使われた。その際に格納されていた爆弾が誤爆して、現在のようなスカスカの柱だけの姿になったとのこと。つまり、今のような姿になったのはつい最近のことで、紀元前に建造されてからほとんどの時間は形ある宗教施設としての姿を保っていたとのことで、感慨深い。
 
アテネ市内に戻り、シンタグマ広場のカフェでエスプレッソを飲んでダラダラしたあと、一旦ゲストハウスに戻って休憩。10時ごろに地下鉄でアクロポリ駅へ行き、ライトアップされたアクロポリスを眺める。
 
アクロポリスの敷地内を勝手にうろちょろしていると、古代の音楽堂でコンサートが行われていた。隙間から覗き見した感じ、古代ローマ式の円形劇場に1,000人くらいの観客が入っていて、ピアノの演奏とライトアップによるコンサートのようだった。現代に連なる時の流れ、時空間のスケールを勝手に感じて、圧倒された。なんというか、ギリシャは恋人と来るべき国だったのだ。
 

41日目 アテネイスタンブール(2012年9月12日)

11時に宿をチェックアウト。アテネ・イージー・アクセスは、アテネで最安値と思われる1泊12ユーロにもかかわらず清潔で、レセプションもスイスやドイツ並みのホスピタリティであり、アテネの定宿にしたいと思った。
 
シンタグマ広場近くのイタリア料理屋でカルボナーラを食べ、コーヒーを飲みつつトルコの旅の予習をした後、アテネ市内が一望できるリカヴィトスの丘に登る。
 
ペトラの「エンド・オブ・ザ・ワールド」ほどではないものの、なかなかきついトレッキングだったが、今回もドンキのゴム草履が活躍した。
 
眺めは最高。広大なアテネ市内、険しい山々に見下ろされる市街地、アクロポリスの佇まいとその背後にどっしりと構えるピレウス港とエーゲ海。あの程度のきつさなら充分に登る価値がある。
 
地下鉄でリオシオン・バスターミナルに行き、バルカン半島方面行きのもう一つのバスターミナルへ移動。
チャイハナでくつろいでいたら、同じ便でイスタンブールに行くという韓国人の女の子ジウと友達になり、一緒の座席に座ってイスタンブールに行くことに。ジウは内科医で、仕事を辞めてイングランドからインドまで旅をしている途中とのことだった。ロンドンに留学していたとのことで英語が流暢すぎて、俺の英語力だとまともな会話にならず、日本語で主に会話してもらうことに。日本に住んだことはないというのに、めちゃくちゃ上手く話せる。グローバルエリートの能力を垣間見る。
 
バスの乗り場がわかりにくく、2人で色々な人に話しかけまくってようやく発見。トルコのバス会社メトロ・ツーリズムのバスだった。トルコのバスはサービスが良すぎ。水、コーヒー、チャイ、軽食が無料でついてくるし、運転手とは別にキャビンアテンダント的な人が常駐していて、おしぼりを配ったり車内サービスを何度も往復してくれる。たぶん日本よりもサービスが良いだろう。
 

42日目 イスタンブール(2012年9月13日)

早朝6時ごろ、イスタンブールのバスターミナルに到着。超巨大だった。
 
とりあえず直近2~3日分のトルコリラを入手し、バスターミナル内をふらふらする。薄暗い照明に朝の光が刺すターミナルの構内に、とんでもない数のトルコ人と旅行者が行き交っている。
 
甘すぎるスイーツとネスカフェ(中東ではインスタントコーヒーを一般名詞としてネスカフェと呼ぶ)の朝食を食べた後、スルタン・アフメット地区に行き、ゲストハウスを探す。2時間近く歩き回ってようやく宿を見つける。イスタンブールはどこもアテネより高く、満室のホテルが非常に多かった。
 
しかし客引きはエジプト人ほどしつこくなく、むしろ、せいぜい新宿渋谷の居酒屋のキャッチレベルといったところ。トプカプ宮殿とハーレムをまず見に行くことにする。
 
欧米のバケーションシーズンに入ったらしく、これまで行った都市とはうって変わって観光客が増えた。
 
トプカプ宮殿とハーレムは両方ともまずまずといった感じ。オスマン朝スルタンの強大な権力はそれほど感じられない。トプカプ宮殿に至っては京都にありそうな無名の名所っぽい雰囲気。
 
その次に行った地下宮殿がかなり良かった。RPGダンジョンのようで、冷え切った空気と赤いライトで照らされた地下空間が不思議な雰囲気で良かった。
 
その後ブルーモスクに行こうとしたが、モスクの広場で無駄にダラダラしていたら夕方のアザーンが始まって観光客が入場できなくなり、翌日に持ち越し。
 
イスタンブールの名所を一通り回り終えて一旦宿に戻る。夕食は金角湾のガラタ橋の方へ歩いていき、ロカンタと呼ばれる定食屋へ。3品好きに選んで店員によそってもらう形式の定食屋で、今日は肉料理、ライス、スープを選び、なんと8.5トルコリラの経済性。これは毎日通う。隣の席にいたおじさんにトルコの新聞ヒュリエットを何故かもらう。
 
ロカンタを出て、トラムに沿ってゲストハウスの方に歩いて戻る。大きな曲がり角の向こうから急にトラムが出てきて、線路を歩いている欧米の観光客が一斉に脇へ避ける、という流れが何度も発生して祭りのような一体感があってなんか楽しい。ライトアップされたブルーモスク、アヤソフィア、スルタンアフメット広場の噴水の素晴らしい眺めを見ながら宿にたどり着いた。
 

43日目 イスタンブール(2012年9月14日)

昼から行動開始。まずは昨日だらだらしていて閉館してしまって入れなかったブルーモスクに行ってみるが、ちょうど礼拝の時間と重なってまた入場できず。先にアヤ・ソフィア行くことにする。
 
アヤ・ソフィアは言わずとしれたイスタンブールのランドマークで、トム・ハンクスからジャッキー・チェンまで数々のハリウッドスターが飛び回った舞台でもある。内部はとんでもないスケール、初期カリフの名がカリグラフィーで刻まれた大円盤、美しいシャンデリア。とても感動した。
 
再々度ブルーモスクに戻ると、イスラムの休日である金曜のためか長時間の礼拝が行われており、または入れなさそう。今日は諦めてアジアサイドに行くことにする。
 
多数の観光客と釣り人とサバ・サンドがひしめき合う金角湾の桟橋から、素晴らしい眺めのフェリーでボスポラス海峡を渡り、カルキョドイ(カルケドン?呼び名どっち?)へ。
 
カラフルな家並みが両側に続く印象的な坂道の多い街並みを散策し、ちょっと疲れたところで適当なチャイハナに入り、チャイを飲む。なんと1トルコリラ。激安、滞在中は何度も利用しよう。
 
また1時間ほど散歩した後、フェリーでヨーロッパサイドに戻り、ベジクタシュへ渡る。少し歩き、フェリー乗り場前の公園でスケボーする少年たちを1時間ほど眺める。
 
歩いてトラムの始発駅へ行き、スィルケジへ行ってまた昨日のロカンタで夕食を取ろうかと思ったが、途端に目に入ったマクドナルドが無性に食べたくなってしまい、入店。バカ舌なので、どんな土地の料理よりマックがおいしい。
 
8時前にアヤソフィア前のスルタンアフメット広場でライトアップされた噴水とブルーモスクをぼーっと眺める。三度も機会を失ったブルーモスク、俺は本当に行けるのだろうか。というか別に行けなくてもいいやという旅疲れの雰囲気も感じてくる。
 
噴水の囲いのところに座ってコーラを飲んでいると、隣に2人組の男がやってきた。一緒に酒を飲む仲間を探しているとのことで、ふたりとも既に酔っ払っていた。1人はドバイ出身で、1人はセルビア出身。ドバイの男はサウジアラビア人の恋人と電話していた。2人ともアメリカの大学で学んでいて、修士課程の夏休みで遊びに来たと言っていた。
 
ドバイの男は2つの会社を持っていて、日本に旅行にしたことがあり、ガンバ大阪の遠藤を知っていると言っていた(日本人に日本のサッカー選手を知っているとアピールしてくるアラブの男は怪しい、さすがの俺も学習した)。しかしドバイの男は酒を飲むのは親父には内緒にしてくれ、マジで殺されるから、と言ったり、セルビアの男にストイコビッチを知ってるかと聞いたり、特にカモられることも怪しい店に連れて行かされることもなく楽しく会話をして別れた。
 
次にイラク人の3人組がやってきて、ほとんど英語ができない3人だったがこれも楽しかった。教師をやっていて(最初はジーンズのビジネスで来てると言っていたと思うので嘘かもしれない)、奥さんをたくさん持っていると言うので、何人いるの?と聞くと、"3 and half" だと("half"とは落とせそうな人が1人いるという意味らしい)。一緒に写真を撮って別れた。なかなか楽しい1日だった。商売っ気のないアラブ人はフレンドリーで楽しい。
 

44日目 イスタンブール→デニズリ(2012年9月15日)

出発日だからダラダラしてしまった。昼前まで寝て、とりあえずチェックアウトして宿の屋上でのんびりネットサーフィンでだらだらする。Instagramに旅行写真を上げていたらいつのまにかフォロワーが増えていた。
 
三度行こうとして行けなかったブルーモスクに最後のチャンスで行ってみる。やっぱり、ありえない行列ができていて、もう行かなくていいかという気分になり、ブルーモスクの広場の日陰の場所に座り込み、ぼーっと建物やはしゃぐ子供たちを無意識で眺めていると、日本人のおばさんに話しかけられて、おばさんの絨毯人ショップに行くことになった。
 
別に悪い店ではなく、複数のセールスを受け、難なくノーと言う。アラブ人に比べると日本時の押し売りは押しが弱すぎると思った。しかしわざと客引きにかかって「クリア」を目指すっておかしくないか。
 
いつものロカンタ「バルカン」で晩ご飯。その後オトガルに行ってカッパドキア行きのチケットを買った。本当にトルコのバスターミナルはでかくて圧倒される。ほぼ空港の規模だ。
 

45日目 デニズリ→パムッカレ(2012年9月16日)

夜行バスで8時間ほど走った後、パムッカレの拠点であるデニズリのオトガルに到着。パムッカレ・バスはサービスがいまいちで、添乗員はとてもこざっぱりしていて好感が持てたが、背もたれもあんまり倒せず、さすがに疲れた。
 
パムッカレ村で、先に今夜のカッパドキア行きのバスチケットを買う。今日は宿泊しない。
 
バスチケットの売店からパムッカレの石灰棚へいく途中、「吉野家よりうまい」と日本語で書いてあるレストランで牛丼を食べる。確かに2ヶ月ぶりの牛丼はうまい。
 
レストランのオーナーがやたら日本の政治に詳しく、田中真紀子と会ったことがあるとか嘘を言っていた。日本人観光客の多いところではこういうおじさんがよくいる。あんまり政治の話ばかりするので「エルドアンについてはどう思う?」と聞き返すと、急にテンションが落ちて「彼はアメリカとイスラエルの奴隷だ」と小さい声でいっていた、公共の場で権力者を批判すると嫌なことが起こるのだろうか、と思った。
 
パムッカレの石灰棚は思ったより人工的な作りに感じたが、にもかかわらず圧倒された。欧米人観光客が水着で遊んでいた。
 
時間があり余り、石灰棚を登ったあとにあるおまけの遺跡をチラッと見る。このローマ式円形劇場みたいなやつもう1万回は見たよ。
 
カフェでエフェス・ビールを買い、風と緑の気持ち良いテラスでサンセットの時間まで昼寝。
 
日が落ちてきたので石灰棚に戻る。パムッカレの夕暮れは僕の今の語彙では形容できないほど美しかった。黄金色に輝く石灰棚はルクソールで見たナイルの落陽に匹敵する。
 

46日目 パムッカレ→カッパドキア(2012年9月17日)

デニズリを深夜に出発する夜行バスに乗り、カッパドキアに向かう。
 
朝6時くらいにカッパドキアのオトガルに到着。観光拠点であるギョレメ行きのバスを待っていると、また日本語ができる自称日本に住んでたおじさんに声かけられたよ。自分のタクシー乗ってけ、兄弟が運営しているゲストハウスを割引してあげるとのこと。会話していると、途中何が起きたか忘れたけど言い合いになり、おじさんにどつかれた。周りでたむろしていたバスドライバー?たちに「このトルコ人が日本語で俺を騙そうとした」と伝えて助けを求めたが、おじさんは日本語を話すのをやめて知らぬ存ぜぬで貫いていた。腹が立つな。
 
結局、言い合いをしているうちにバスが来たので、それに乗ってギョレメへ。だんだんとカッパドキア名物のキノコ岩が見えてきて、しばらくすると道路からの景色がすべてキノコ岩だらけになり、テンションが上ってきた。
 
ギョレメのオトガルに着き、地球の歩き方に書いてある日本人宿に行く。カッパドキアのホテルはだいたいそうだが、キノコ岩の中がくり抜かれて部屋が作られる洞窟ホテルだ。
 
少し仮眠して朝食会場に行く。日本人の3人(みんな一人旅)と仲良くなり、一緒にバイクを借りて一日観光しよう、ということになった。
 
ホテルに紹介してもらったレンタカー屋でバイクを借りて10時ごろ出発し、まずはウチヒサル城塞に行く。片道1車線のハイウェイを爆走し、ローカルの人が住む旧市街のような町の坂道をひたすら上がったところにある。バベルの塔みたいな、平たい岩が積み上がってその中をくり抜いて居住地にしてしまったような場所。もしくは、ジブリは全然見ないのだが「ハウルの動く城」みたいらしい。とりあえずてっぺんまで登って、一通りiPhoneで写真を撮る。カルデラのような崖に囲まれた地域にひたすら赤茶けた市街地が見える。ギフトショップでジェラートを食べた。
 
その後、陶芸体験に行くためにアヴァノスという町へ移動。一緒に行動したシュンくんがかなり下調べをしていて行く場所のアイデアを出してくれて楽だった。向かう途中も面白い景色があったらその都度バイクを止めつつ、アヴァノスの教会の前にバイクを止めて陶芸教室へ。200トルコリラ(≒3,000円)もするとのことで俺はパスした。
 
その後もバイクで名所をまわり(シュンくんについていっただけなのだが、後で「レッドツアー」と呼ばれるルートを辿っているだけだと気づいた)、最後に有名なローズバレーでサンセットを見て解散。あまり期待していたほどではない。
 
夜はみんなでスーパーで買い出しして親子丼を作った。洞窟ホテルはかなり内部が寒くて、洞窟のかけらが天井から降ってきて寝てる間に布団が真っ白になる。
 

47日目 カッパドキア(2012年9月18日)

今日は1人で、地下都市デリンクユへ行く。ギョレメからバスで30分ほど移動したところにある。
 
英語圏の海外旅行あるあるとして、バス停の名前が読めずどこで降りたらいいかわからないというものがある。特にタイとかアラビア語圏とかでは深刻で、非ネイティブには文字の区別がまったくできないので、文字情報に頼った旅はほぼ不可能だ。トルコ語はアルファベットがベースなのでまだマシなのだが、今回も例によって降りるべきバス停の場所が分からず、それっぽい場所を行ったり来たりする(金と時間がすり減っていく)。結局、ヨーロッパ人の家族が降りている場所で一緒に降りてみる。正しい場所だったようだ。
 
ここは3,000年ほど前にヒッタイト人が作った地下都市らしい。その後、初期のキリスト教徒がイスラム教徒の迫害から逃れるためのシェルターとして拡張し、最深部で地下8階まで、カッパドキア洞窟ホテルと同じ要領で地下に掘り進めていったものらしい。
 
実際に入ってみると、なんとなく空気が薄く感じられ、なんともいない圧迫感と薄暗さに不安になる空間だった。ろくに火も使えなかっただろうに(火事が起きたら都市ごと全焼するだろう)、こんなところに1万人も住んでいたとは驚く。
 
階段を下り、細い路地を抜けると大きなホールがある、さらに脇道へ入ると小さな部屋が無数に現れる、といた要領で地下深くまで続いている空間をひたすら逆トレッキングしていく。やっぱり一人旅は一人で行動するほうが楽しい。
 

48日目 カッパドキアトラブゾン(2012年9月19日)

ギョレメを深夜バスで出て、黒海沿岸の町、トラブゾンへ。もう9月中旬かつ中央アナトリアの標高の高さもあり、だいぶ肌寒くなってきた。真夏の日本を出発し、50℃近いドバイからスタートしたこの旅だけど、季節が多少変わるくらいには長い時間、長い距離を移動したことを実感する。
 
トラブゾンへのSuha社のバスは、途中で故障しはじめ、アテンドスタッフのひょろっとしたおじさんが泥だらけになって修理しながらヨロヨロと走り続けた。僕のすぐ横の通路のフタを空け、車体の下のエンジンからもくもくあがってくる黒い煙をまともに受けまくっていた。朝7時にはトラブゾンのオトガルに着くはずだったのが、結局12時すぎに到着した。
 
オトガルからタクシーでダウンタウンへ行き、カッパドキアでサナさんに勧められた「ベンリ・ホテル」を探す。トラブゾンの空は低くて、雨が降り出しそうな空模様。ベンリ・ホテルでは最初35トルコリラと言われたが、サナさんに言われた通り「日本から来た」と伝えると、こっそり15トルコリラの特別料金で案内してくれた。
 
四日前のパムッカレから夜行バスで2泊、日中も丸一日歩いていたのでだいぶ疲れが溜まった。トラブゾンは特に観光するべき場所もなく、個人的には世界史でヨーロッパの要所でありつづけ、オスマン帝国帝政ロシアコーカサス3国が争い続けた黒海を自分の目で見たかったから来た。
 
とはいえ何かすべきことはやはりないので、売店でチャイを買い、海岸沿いのベンチに座って一服し海を眺めるくらいしかすることはない。黒海は、黒いと言えば黒い。というか雰囲気の暗さ、空の低さがまるで日本海のようだ。
 

49日目 トラブゾン(2012年9月20日) 

朝起きてホテルの朝食を食べる。質素なトーストと果物とコーヒーのメニュー。食べ終えて散歩に出かける。今日もトラブゾンの空は曇り。
 
トラブゾンの人々は、オマーンのマスカットと同じで外国人が珍しいみたいで、一人で歩いているとやたらジロジロ見られるので町を歩くのが煩わしい。
 
とはいえ次に行く予定のアンカラに移動するには体力がなく、居座るには暇すぎるので適当にぶらつく以外にない。ポズテベと言う丘に登って、トラブゾン市街と黒海を眺める。
 
丘の上のチャイハナでよく分からずにチャイを頼むと、巨大なチャイセットとともにお菓子付きで出てきた。チャイ1杯だけだと思ってたから驚いた。後で聞くと料金はなんと13トルコリラもする。自分で入れる方式で、茶っぱとかお湯の分量がわからないわ、付け合わせの塩味ひまわりの種は噛むのに疲れるわで散々。べつに騙されたわけではなく、聞きもせずに自分で店に入ったのだが。余計なことはしないほうがいいと思った。
 
いい加減、旅にも疲れてきた。
 

50日目 トラブゾン(2012年9月21日)

追加1泊ぶんの宿代を払って、ブランチにケバブサンドを食いに行く。店の親父と代金のことで揉めるが、強気にって言い値を維持する。わずか2トルコリラ、しかもこちらの記憶もあやふやだったけど、損をさせる気持ちでも強気にいったほうがいい。中東では、本当に向こうが正しいんだったら向こうも譲らないんだから。日本人ちょろいと言う感覚を持たせてはならない。
 
海沿いの砂浜のベンチに座ってタバコを吸っていると、3人の若者が寄ってきたので、話をする。頭の狂った英語の話せないイケメンと、おとなしいタフガイ、医学部に通っている聡明なやつの3人組。イスラム圏の男は本当にセックスの話しかしないらしく、それだけで2時間くらい盛り上がってしゃべる。
 
医学部の少年が英語がうまいので、彼を通訳にして話をしていたけど、基本ジェスチャーと大声で何かを叫び合うだけで気持ちが通じて楽しかった。とはいえ、この度を通じて何度も感じたが、これは言葉が通じないがゆえの「気持ちが通じ合った感」であり、要はただの錯覚なのであり、日本でよく見かける、国際交流好きの学生が浸ってる麻薬の正体である。
 
別れ際、医学部の少年から「ギフトだ」と言って、トルコ国旗の月と星のキーホルダーと腕輪をもらった。楽しい奴らだった。
 

51日目 トラブゾンアンカラ(2012年9月22日)

帰国まで残り1週間を切った。トラブゾンを出て、夜行のメトロバスで首都アンカラへ。大きな通り沿いにビルが立ち並ぶ、ヨーロッパというよりは東南アジアの大都市のような都会だ。
 
ディスカウントしてもらったビジネスホテルにチェックインした。ゲストハウスに泊まるのも疲れたので。
 
歩いてアタテュルク廟を見に行く。途中、サッカースタジアムの近くを通り、ガラタサライのユニフォームを着たサポーターの大群とすれ違って疲れた。スタジアムの公園でジェラートを買って休憩する。
 
ムスタファ・ケマルが眠るアタテュルク廟は、世界史で出てくるので是非行きたかったところ。数千年経った後、廃墟となったここも遺跡として未来の観光名所になるんだろうなと思った。
 

52日目 アンカラサフランボル(2012年9月23日)

アンカラを早朝のバスで出発し、サフランボルに到着。この度の最後の目的地となるはずだ(ここで3日くらい過ごしてイスタンブールに戻って終わり)。
 
ゲストハウスでベッドを確保してから町をぶらついていると、カッパドキアで同じ宿だった佐藤さんと偶然会って、一緒に晩飯とお茶をする。有名なサフラン茶はかなり微妙な味だ。
 

53日目 サフランボル(2012年9月24日)

サフランボルの街を歩きまわる。といっても、ものの数十分で一周できるほどの小さな町で、知り合いの日本人旅行者に何度も出くわす。カッパドキアかパムッカレのオトガルで少し会話した日本人のおじさんと遭遇し、一緒にランチを食べる。
 
ひとりになりたくてもトルコ人はなかなか一人にしてくれない。英語のできないおじちゃん2人に絡まれ、チャイ3杯、タバコ4本をおごってもらった。
 
クランキョイまでイスタンブール行きのバスチケットを買いに行った帰り、チャルシュ(商店街)のベンチでタバコを吸っていると、また英語のできないトルコ人ファミリーに絡まれる。One, Two, Threeも言えない、小学生レベルの単語も分からないで、どうして外国人に話しかけようと思うんだろう。日本人からすると理解できないメンタリティを実感した。
 

54日目 サフランボルイスタンブール(2012年9月25日)

サフランボル最終日。まぁバスまで時間を潰すことしかできることはない。
 
同じ部屋に日本語のできる韓国人が2人いて、いろいろ話す。特にスーさんという方は、早稲田にある語学学校に通っていて、仕事を辞めて世界一周をしているそうで、頑張っていろいろな話を聞かせてもらった。たぶん俺が英語でしゃべるべきだったんだろうけど。
 
日中はぶらぶらした後、昨日会った日本人のおじさんをバス停に案内し、夕食をおごってもらう。チャイが1杯15トルコリラもして、申し訳なくなったのでその分だけ払った(安めの夕食代だ)。
 
同じ部屋に居た台湾人と一緒に、宿のオーナーに車でオトガルまで送ってもらう。僕が小さいバックパックしか持っていないのを見て、オーナーのおじさんに「そんな小さい荷物で2ヶ月も旅行してるのか」と驚かれた。
 

55日目 イスタンブール(2012年9月26日)

イスタンブールのオトガルに5時半ごろ到着して、そのまま街へ向かう。約2週間、トルコ全土を回ってきて、イスタンブールに戻ってきた。スルタンアフメット地区のホテルは、早朝すぎてどこも満室だった。チェックインから1番遠い時間だもんな。
 
公園でしばしば時間をつぶして、38トルコリラのゲストハウスに仕方なくベッドを確保。このゲストハウスは若い欧米人しかいない。
 
疲れたので昼間はずっと寝てて、気づいたら夕方になっていた。いつものロカンタで、この旅最後のディナーを取る。
 
ブルーモスク前でチャイを飲んでいると、キプロス出身ドバイ在住の少年に飲みに行こうと声をかけられた。今回の旅の流れからして当然断ったが、それはそれで楽しくない。ついていって行ってから状況に応じて判断するやり方を教え得しないと旅が楽しくなくなるな。とりあえずたくさん資金があれば騙されても問題ないわけだけど、今の有り金じゃそれもできない。
 

56日目 最終日 イスタンブール(2012年9月27日)

ついに2ヶ月間に及んだ中東一人旅の最終日。といっても金も体力もやる気もないので何もしなかった。
 
有り金は残り4トルコリラ。スルタンアフメット地区からイスタンブール国際空港まで電車で行けるギリギリの現金だけを残してだらだらすることにした。マクドナルドでツイッターを見たり、無駄に何度もボスポラス海峡を往復したり。10月も近くなり、かなり寒かった。
 
スルタンアフメット地区からメトロの駅までのトラムは2トルコリラ、空港までのメトロは2トルコリラだと思っていたので、合計で4トルコリラ残しておけば空港までたどり着けると言う考えでいたのに、1回3トルコリラで計6トルコリラ必要と気づき、焦る。結局、トラム5駅分を、重いリュックを担いで走らなければならなくなった。あのイスタンブールの西日を受けながらのマラソンは強く印象に残り、後々思い出すだろう。
 
 

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