ベガスでロシア人を撃つな

好きな本を薦めたいと思う人、そうするべきでない人

 自分の好きな本を他人にお薦めするのが苦手だ。自分のリコメンドに対して費やされる他人の時間と労力にまで責任を負っているような気がして、構えてしまう。

 今年僕は、パワーズやピンチョン、オーウェルなんかの作品から大きな影響を受け取った。読まないで済ませた平行世界を想像するのが怖いほどの影響を受け取った。でもだからといって、それらを他人にも進んで薦めようという気にはならない。

 これらの本を読書習慣のない人が読み通すのは並じゃないコストがかかる。

 本なんて無ければ無いで死ぬわけじゃないから、読書から必要な養分を摂取しようという気にならない人に本は必要ない。自分の人生に必要なエッセンスを予知し、経験からそのすべてを学び取っている実感があるならば、経験以外はいらないと思うのが当然だろう。

 そういう人は本を必要としようという発想すら思い付かないはず。読んでみてと薦めてみても、本の中から何がしかの面白さを見出そうという姿勢をまず取れないだろうし、結果最後まで読み通すこともないだろう。費用対効果として現に無用なのだから当たり前だ。

 普段の生活や仕事から何かを学び取っている気がしない人、先週の自分より今日・明日の自分は着実に進歩しているだろうという実感が持てない人。本はこういった人々にこそ必要であり、彼らこそが本を必要とする行動を実際に取る。

 こういう人たちは、不揃いな島国言語が印刷された紙の束を、ある種の霊感をもって見つめ、手に取ることができる。枕にせず、書棚に飾るインテリアにせず、(このブログのような)ジャンクな文の羅列と代替可能な暇つぶしと認識しない。本に書かれた情報を、人体にとって一段高次の栄養素としてあがめるスピリットに行き着く。この無根拠な霊感は、彼らの損益分岐点を巨人の大またぎで越えていく。

 結局、僕が気に入った本を薦められるのは、この巨人の気配を感じ取ってしまっている人たちだということになる。自分の世界にこの巨人がいることを知っていて、振り返って見つめ、あわよくばよじ登って肩越しに景色を見ながら時間をスキップしようとする人。この種の予感を必要とせざるをえなくなった人。僕は彼らと、どの巨人が利用価値が高いのか情報交換し合いたいといつも思う。

 そして、巨人の気配を感じない人にまちがってその情報交換を持ちかけることに気を付けようと思う。それは共感不能な信仰を押し付ける宗教おばさんと同じ振る舞いだ。彼らの世界に巨人はいないのだから、お互いに何のメリットもない。僕や僕たちにとっての巨人は、彼らにとっては自然の岩肌やB2B企業の本社ビル程度にも価値を感じないはずだ。