ベガスでロシア人を撃つな

【中東一人旅 2012】⑤ギリシャ・トルコ編(2012年9月10日~9月27日)

 

39日目 アテネ(2012年9月10日)

ゲストハウスの朝食を食べ、昼過ぎに宿を出て、歩いてアクロポリスへ。また丘の上にあるタイプの観光名所なのでゴム草履でトレッキング。ドンキで買ったゴム草履の耐久性すごい。
 
アクロポリスの丘をひたすら登っていくと、明らかに古代ギリシャ風の大きなゲートが現れ、そこので観光客が渋滞していた。このがパルテノンの入り口のようだ。パルテノン神殿は残念ながら大改装キャンペーン中で、鉄の足場が組まれてクレーン車の巨大な爪先が突き刺さっており、超メカニカル仕様だった。残念だけど仕方ない。
 
アクロポリスから見渡すギリシャ市内は素晴らしく、遠くにはエーゲ海まで視界に入れることができた。アクロポリスの端にたなびくギリシャ国旗を写真に収める。
 
アクロポリスを出て、ゼウス神殿に行く途中、イタリア人のおっちゃんに声をかけられ、自分も1人だから一緒に行動しようと持ちかけられる。
日本人のサッカー選手をよく知っていて、とても楽しいおっちゃんだったので快く了解してしまった。油断していた。ギリシャと言えるヨーロッパに来たことで心が緩んでいた。ギリシャ名物の蒸留酒である「ウゾー」の有名店に連れて行くと言われ、ついて行って店のお姉さんと楽しく飲んでいたら、ありえないボッタクリ価格、おちょこ1杯のウゾーで220ユーロを請求された。ボッタクリのデブの店主は俺に金がないとみると、お前は学生だからこれだけでいいと有り金全部を要求してきた。
 
イタリア人のおっちゃんもグルだったのだ。ツーリストポリスに連絡するぞと脅すと、店主のオヤジはののしり言葉とともに金を返してきた。うんざりして、16時過ぎには宿に戻り、飯も食わずにふて寝した。
 

40日目 アテネ(2012年9月11日)

ゲストハウスのレセプションで長距離バスのチケットオフィスの場所を聞いてラリッサ駅へ。明日のトルコ・イスタンブール行きバスのチケットを買いに行く。イスタンブールは、エルサレムと並んで今回の旅で最も行きたかった場所だ。三大宗教の交差点であるエレサレム、東西文明の交差点であるイスタンブール、など、僕は異なる価値観の交差点に旅行先としての魅力を感じるようだ。
 
チケットオフィスは宿から2kmくらいの場所にあるはずだが、道に迷ってしまい、1時間以上かかってしまった。ギリシャの人はどうも話しかづらく思ってしまう。別にみんな忙しそうにしているわけではないのだが。
 
54ユーロでイスタンブール行きのチケットをゲット。聞いていたより安く、昨日の悪徳ウゾー野郎とのバトルによる損失を少し取り戻した気分。
 
アクロポリス博物館へ地下鉄を使って行った。アテネの地下鉄は2004年のオリンピックの時に作ったらしく、清潔でとてもきれいにしている。
 
博物館の最上階から見るアクロポリスのパノラマはなかなか。博物館で面白かったのが、紀元前に作られたパルテノン神殿の使いみちの変遷だ。もともと、古代ギリシャの神々を祀る神殿として作られた。その後、キリスト教徒に占領されて教会になり、十字架も建てられた。オスマン・トルコに占領された後はイスラム教のモスクとなり、十字架が取り除かれて代わりにミナレットが建て増しされた。そして、20世紀初頭にギリシャナチス・ドイツの占領下となった後は、爆薬庫として使われた。その際に格納されていた爆弾が誤爆して、現在のようなスカスカの柱だけの姿になったとのこと。つまり、今のような姿になったのはつい最近のことで、紀元前に建造されてからほとんどの時間は形ある宗教施設としての姿を保っていたとのことで、感慨深い。
 
アテネ市内に戻り、シンタグマ広場のカフェでエスプレッソを飲んでダラダラしたあと、一旦ゲストハウスに戻って休憩。10時ごろに地下鉄でアクロポリ駅へ行き、ライトアップされたアクロポリスを眺める。
 
アクロポリスの敷地内を勝手にうろちょろしていると、古代の音楽堂でコンサートが行われていた。隙間から覗き見した感じ、古代ローマ式の円形劇場に1,000人くらいの観客が入っていて、ピアノの演奏とライトアップによるコンサートのようだった。現代に連なる時の流れ、時空間のスケールを勝手に感じて、圧倒された。なんというか、ギリシャは恋人と来るべき国だったのだ。
 

41日目 アテネイスタンブール(2012年9月12日)

11時に宿をチェックアウト。アテネ・イージー・アクセスは、アテネで最安値と思われる1泊12ユーロにもかかわらず清潔で、レセプションもスイスやドイツ並みのホスピタリティであり、アテネの定宿にしたいと思った。
 
シンタグマ広場近くのイタリア料理屋でカルボナーラを食べ、コーヒーを飲みつつトルコの旅の予習をした後、アテネ市内が一望できるリカヴィトスの丘に登る。
 
ペトラの「エンド・オブ・ザ・ワールド」ほどではないものの、なかなかきついトレッキングだったが、今回もドンキのゴム草履が活躍した。
 
眺めは最高。広大なアテネ市内、険しい山々に見下ろされる市街地、アクロポリスの佇まいとその背後にどっしりと構えるピレウス港とエーゲ海。あの程度のきつさなら充分に登る価値がある。
 
地下鉄でリオシオン・バスターミナルに行き、バルカン半島方面行きのもう一つのバスターミナルへ移動。
チャイハナでくつろいでいたら、同じ便でイスタンブールに行くという韓国人の女の子ジウと友達になり、一緒の座席に座ってイスタンブールに行くことに。ジウは内科医で、仕事を辞めてイングランドからインドまで旅をしている途中とのことだった。ロンドンに留学していたとのことで英語が流暢すぎて、俺の英語力だとまともな会話にならず、日本語で主に会話してもらうことに。日本に住んだことはないというのに、めちゃくちゃ上手く話せる。グローバルエリートの能力を垣間見る。
 
バスの乗り場がわかりにくく、2人で色々な人に話しかけまくってようやく発見。トルコのバス会社メトロ・ツーリズムのバスだった。トルコのバスはサービスが良すぎ。水、コーヒー、チャイ、軽食が無料でついてくるし、運転手とは別にキャビンアテンダント的な人が常駐していて、おしぼりを配ったり車内サービスを何度も往復してくれる。たぶん日本よりもサービスが良いだろう。
 

42日目 イスタンブール(2012年9月13日)

早朝6時ごろ、イスタンブールのバスターミナルに到着。超巨大だった。
 
とりあえず直近2~3日分のトルコリラを入手し、バスターミナル内をふらふらする。薄暗い照明に朝の光が刺すターミナルの構内に、とんでもない数のトルコ人と旅行者が行き交っている。
 
甘すぎるスイーツとネスカフェ(中東ではインスタントコーヒーを一般名詞としてネスカフェと呼ぶ)の朝食を食べた後、スルタン・アフメット地区に行き、ゲストハウスを探す。2時間近く歩き回ってようやく宿を見つける。イスタンブールはどこもアテネより高く、満室のホテルが非常に多かった。
 
しかし客引きはエジプト人ほどしつこくなく、むしろ、せいぜい新宿渋谷の居酒屋のキャッチレベルといったところ。トプカプ宮殿とハーレムをまず見に行くことにする。
 
欧米のバケーションシーズンに入ったらしく、これまで行った都市とはうって変わって観光客が増えた。
 
トプカプ宮殿とハーレムは両方ともまずまずといった感じ。オスマン朝スルタンの強大な権力はそれほど感じられない。トプカプ宮殿に至っては京都にありそうな無名の名所っぽい雰囲気。
 
その次に行った地下宮殿がかなり良かった。RPGダンジョンのようで、冷え切った空気と赤いライトで照らされた地下空間が不思議な雰囲気で良かった。
 
その後ブルーモスクに行こうとしたが、モスクの広場で無駄にダラダラしていたら夕方のアザーンが始まって観光客が入場できなくなり、翌日に持ち越し。
 
イスタンブールの名所を一通り回り終えて一旦宿に戻る。夕食は金角湾のガラタ橋の方へ歩いていき、ロカンタと呼ばれる定食屋へ。3品好きに選んで店員によそってもらう形式の定食屋で、今日は肉料理、ライス、スープを選び、なんと8.5トルコリラの経済性。これは毎日通う。隣の席にいたおじさんにトルコの新聞ヒュリエットを何故かもらう。
 
ロカンタを出て、トラムに沿ってゲストハウスの方に歩いて戻る。大きな曲がり角の向こうから急にトラムが出てきて、線路を歩いている欧米の観光客が一斉に脇へ避ける、という流れが何度も発生して祭りのような一体感があってなんか楽しい。ライトアップされたブルーモスク、アヤソフィア、スルタンアフメット広場の噴水の素晴らしい眺めを見ながら宿にたどり着いた。
 

43日目 イスタンブール(2012年9月14日)

昼から行動開始。まずは昨日だらだらしていて閉館してしまって入れなかったブルーモスクに行ってみるが、ちょうど礼拝の時間と重なってまた入場できず。先にアヤ・ソフィア行くことにする。
 
アヤ・ソフィアは言わずとしれたイスタンブールのランドマークで、トム・ハンクスからジャッキー・チェンまで数々のハリウッドスターが飛び回った舞台でもある。内部はとんでもないスケール、初期カリフの名がカリグラフィーで刻まれた大円盤、美しいシャンデリア。とても感動した。
 
再々度ブルーモスクに戻ると、イスラムの休日である金曜のためか長時間の礼拝が行われており、または入れなさそう。今日は諦めてアジアサイドに行くことにする。
 
多数の観光客と釣り人とサバ・サンドがひしめき合う金角湾の桟橋から、素晴らしい眺めのフェリーでボスポラス海峡を渡り、カルキョドイ(カルケドン?呼び名どっち?)へ。
 
カラフルな家並みが両側に続く印象的な坂道の多い街並みを散策し、ちょっと疲れたところで適当なチャイハナに入り、チャイを飲む。なんと1トルコリラ。激安、滞在中は何度も利用しよう。
 
また1時間ほど散歩した後、フェリーでヨーロッパサイドに戻り、ベジクタシュへ渡る。少し歩き、フェリー乗り場前の公園でスケボーする少年たちを1時間ほど眺める。
 
歩いてトラムの始発駅へ行き、スィルケジへ行ってまた昨日のロカンタで夕食を取ろうかと思ったが、途端に目に入ったマクドナルドが無性に食べたくなってしまい、入店。バカ舌なので、どんな土地の料理よりマックがおいしい。
 
8時前にアヤソフィア前のスルタンアフメット広場でライトアップされた噴水とブルーモスクをぼーっと眺める。三度も機会を失ったブルーモスク、俺は本当に行けるのだろうか。というか別に行けなくてもいいやという旅疲れの雰囲気も感じてくる。
 
噴水の囲いのところに座ってコーラを飲んでいると、隣に2人組の男がやってきた。一緒に酒を飲む仲間を探しているとのことで、ふたりとも既に酔っ払っていた。1人はドバイ出身で、1人はセルビア出身。ドバイの男はサウジアラビア人の恋人と電話していた。2人ともアメリカの大学で学んでいて、修士課程の夏休みで遊びに来たと言っていた。
 
ドバイの男は2つの会社を持っていて、日本に旅行にしたことがあり、ガンバ大阪の遠藤を知っていると言っていた(日本人に日本のサッカー選手を知っているとアピールしてくるアラブの男は怪しい、さすがの俺も学習した)。しかしドバイの男は酒を飲むのは親父には内緒にしてくれ、マジで殺されるから、と言ったり、セルビアの男にストイコビッチを知ってるかと聞いたり、特にカモられることも怪しい店に連れて行かされることもなく楽しく会話をして別れた。
 
次にイラク人の3人組がやってきて、ほとんど英語ができない3人だったがこれも楽しかった。教師をやっていて(最初はジーンズのビジネスで来てると言っていたと思うので嘘かもしれない)、奥さんをたくさん持っていると言うので、何人いるの?と聞くと、"3 and half" だと("half"とは落とせそうな人が1人いるという意味らしい)。一緒に写真を撮って別れた。なかなか楽しい1日だった。商売っ気のないアラブ人はフレンドリーで楽しい。
 

44日目 イスタンブール→デニズリ(2012年9月15日)

出発日だからダラダラしてしまった。昼前まで寝て、とりあえずチェックアウトして宿の屋上でのんびりネットサーフィンでだらだらする。Instagramに旅行写真を上げていたらいつのまにかフォロワーが増えていた。
 
三度行こうとして行けなかったブルーモスクに最後のチャンスで行ってみる。やっぱり、ありえない行列ができていて、もう行かなくていいかという気分になり、ブルーモスクの広場の日陰の場所に座り込み、ぼーっと建物やはしゃぐ子供たちを無意識で眺めていると、日本人のおばさんに話しかけられて、おばさんの絨毯人ショップに行くことになった。
 
別に悪い店ではなく、複数のセールスを受け、難なくノーと言う。アラブ人に比べると日本時の押し売りは押しが弱すぎると思った。しかしわざと客引きにかかって「クリア」を目指すっておかしくないか。
 
いつものロカンタ「バルカン」で晩ご飯。その後オトガルに行ってカッパドキア行きのチケットを買った。本当にトルコのバスターミナルはでかくて圧倒される。ほぼ空港の規模だ。
 

45日目 デニズリ→パムッカレ(2012年9月16日)

夜行バスで8時間ほど走った後、パムッカレの拠点であるデニズリのオトガルに到着。パムッカレ・バスはサービスがいまいちで、添乗員はとてもこざっぱりしていて好感が持てたが、背もたれもあんまり倒せず、さすがに疲れた。
 
パムッカレ村で、先に今夜のカッパドキア行きのバスチケットを買う。今日は宿泊しない。
 
バスチケットの売店からパムッカレの石灰棚へいく途中、「吉野家よりうまい」と日本語で書いてあるレストランで牛丼を食べる。確かに2ヶ月ぶりの牛丼はうまい。
 
レストランのオーナーがやたら日本の政治に詳しく、田中真紀子と会ったことがあるとか嘘を言っていた。日本人観光客の多いところではこういうおじさんがよくいる。あんまり政治の話ばかりするので「エルドアンについてはどう思う?」と聞き返すと、急にテンションが落ちて「彼はアメリカとイスラエルの奴隷だ」と小さい声でいっていた、公共の場で権力者を批判すると嫌なことが起こるのだろうか、と思った。
 
パムッカレの石灰棚は思ったより人工的な作りに感じたが、にもかかわらず圧倒された。欧米人観光客が水着で遊んでいた。
 
時間があり余り、石灰棚を登ったあとにあるおまけの遺跡をチラッと見る。このローマ式円形劇場みたいなやつもう1万回は見たよ。
 
カフェでエフェス・ビールを買い、風と緑の気持ち良いテラスでサンセットの時間まで昼寝。
 
日が落ちてきたので石灰棚に戻る。パムッカレの夕暮れは僕の今の語彙では形容できないほど美しかった。黄金色に輝く石灰棚はルクソールで見たナイルの落陽に匹敵する。
 

46日目 パムッカレ→カッパドキア(2012年9月17日)

デニズリを深夜に出発する夜行バスに乗り、カッパドキアに向かう。
 
朝6時くらいにカッパドキアのオトガルに到着。観光拠点であるギョレメ行きのバスを待っていると、また日本語ができる自称日本に住んでたおじさんに声かけられたよ。自分のタクシー乗ってけ、兄弟が運営しているゲストハウスを割引してあげるとのこと。会話していると、途中何が起きたか忘れたけど言い合いになり、おじさんにどつかれた。周りでたむろしていたバスドライバー?たちに「このトルコ人が日本語で俺を騙そうとした」と伝えて助けを求めたが、おじさんは日本語を話すのをやめて知らぬ存ぜぬで貫いていた。腹が立つな。
 
結局、言い合いをしているうちにバスが来たので、それに乗ってギョレメへ。だんだんとカッパドキア名物のキノコ岩が見えてきて、しばらくすると道路からの景色がすべてキノコ岩だらけになり、テンションが上ってきた。
 
ギョレメのオトガルに着き、地球の歩き方に書いてある日本人宿に行く。カッパドキアのホテルはだいたいそうだが、キノコ岩の中がくり抜かれて部屋が作られる洞窟ホテルだ。
 
少し仮眠して朝食会場に行く。日本人の3人(みんな一人旅)と仲良くなり、一緒にバイクを借りて一日観光しよう、ということになった。
 
ホテルに紹介してもらったレンタカー屋でバイクを借りて10時ごろ出発し、まずはウチヒサル城塞に行く。片道1車線のハイウェイを爆走し、ローカルの人が住む旧市街のような町の坂道をひたすら上がったところにある。バベルの塔みたいな、平たい岩が積み上がってその中をくり抜いて居住地にしてしまったような場所。もしくは、ジブリは全然見ないのだが「ハウルの動く城」みたいらしい。とりあえずてっぺんまで登って、一通りiPhoneで写真を撮る。カルデラのような崖に囲まれた地域にひたすら赤茶けた市街地が見える。ギフトショップでジェラートを食べた。
 
その後、陶芸体験に行くためにアヴァノスという町へ移動。一緒に行動したシュンくんがかなり下調べをしていて行く場所のアイデアを出してくれて楽だった。向かう途中も面白い景色があったらその都度バイクを止めつつ、アヴァノスの教会の前にバイクを止めて陶芸教室へ。200トルコリラ(≒3,000円)もするとのことで俺はパスした。
 
その後もバイクで名所をまわり(シュンくんについていっただけなのだが、後で「レッドツアー」と呼ばれるルートを辿っているだけだと気づいた)、最後に有名なローズバレーでサンセットを見て解散。あまり期待していたほどではない。
 
夜はみんなでスーパーで買い出しして親子丼を作った。洞窟ホテルはかなり内部が寒くて、洞窟のかけらが天井から降ってきて寝てる間に布団が真っ白になる。
 

47日目 カッパドキア(2012年9月18日)

今日は1人で、地下都市デリンクユへ行く。ギョレメからバスで30分ほど移動したところにある。
 
英語圏の海外旅行あるあるとして、バス停の名前が読めずどこで降りたらいいかわからないというものがある。特にタイとかアラビア語圏とかでは深刻で、非ネイティブには文字の区別がまったくできないので、文字情報に頼った旅はほぼ不可能だ。トルコ語はアルファベットがベースなのでまだマシなのだが、今回も例によって降りるべきバス停の場所が分からず、それっぽい場所を行ったり来たりする(金と時間がすり減っていく)。結局、ヨーロッパ人の家族が降りている場所で一緒に降りてみる。正しい場所だったようだ。
 
ここは3,000年ほど前にヒッタイト人が作った地下都市らしい。その後、初期のキリスト教徒がイスラム教徒の迫害から逃れるためのシェルターとして拡張し、最深部で地下8階まで、カッパドキア洞窟ホテルと同じ要領で地下に掘り進めていったものらしい。
 
実際に入ってみると、なんとなく空気が薄く感じられ、なんともいない圧迫感と薄暗さに不安になる空間だった。ろくに火も使えなかっただろうに(火事が起きたら都市ごと全焼するだろう)、こんなところに1万人も住んでいたとは驚く。
 
階段を下り、細い路地を抜けると大きなホールがある、さらに脇道へ入ると小さな部屋が無数に現れる、といた要領で地下深くまで続いている空間をひたすら逆トレッキングしていく。やっぱり一人旅は一人で行動するほうが楽しい。
 

48日目 カッパドキアトラブゾン(2012年9月19日)

ギョレメを深夜バスで出て、黒海沿岸の町、トラブゾンへ。もう9月中旬かつ中央アナトリアの標高の高さもあり、だいぶ肌寒くなってきた。真夏の日本を出発し、50℃近いドバイからスタートしたこの旅だけど、季節が多少変わるくらいには長い時間、長い距離を移動したことを実感する。
 
トラブゾンへのSuha社のバスは、途中で故障しはじめ、アテンドスタッフのひょろっとしたおじさんが泥だらけになって修理しながらヨロヨロと走り続けた。僕のすぐ横の通路のフタを空け、車体の下のエンジンからもくもくあがってくる黒い煙をまともに受けまくっていた。朝7時にはトラブゾンのオトガルに着くはずだったのが、結局12時すぎに到着した。
 
オトガルからタクシーでダウンタウンへ行き、カッパドキアでサナさんに勧められた「ベンリ・ホテル」を探す。トラブゾンの空は低くて、雨が降り出しそうな空模様。ベンリ・ホテルでは最初35トルコリラと言われたが、サナさんに言われた通り「日本から来た」と伝えると、こっそり15トルコリラの特別料金で案内してくれた。
 
四日前のパムッカレから夜行バスで2泊、日中も丸一日歩いていたのでだいぶ疲れが溜まった。トラブゾンは特に観光するべき場所もなく、個人的には世界史でヨーロッパの要所でありつづけ、オスマン帝国帝政ロシアコーカサス3国が争い続けた黒海を自分の目で見たかったから来た。
 
とはいえ何かすべきことはやはりないので、売店でチャイを買い、海岸沿いのベンチに座って一服し海を眺めるくらいしかすることはない。黒海は、黒いと言えば黒い。というか雰囲気の暗さ、空の低さがまるで日本海のようだ。
 

49日目 トラブゾン(2012年9月20日) 

朝起きてホテルの朝食を食べる。質素なトーストと果物とコーヒーのメニュー。食べ終えて散歩に出かける。今日もトラブゾンの空は曇り。
 
トラブゾンの人々は、オマーンのマスカットと同じで外国人が珍しいみたいで、一人で歩いているとやたらジロジロ見られるので町を歩くのが煩わしい。
 
とはいえ次に行く予定のアンカラに移動するには体力がなく、居座るには暇すぎるので適当にぶらつく以外にない。ポズテベと言う丘に登って、トラブゾン市街と黒海を眺める。
 
丘の上のチャイハナでよく分からずにチャイを頼むと、巨大なチャイセットとともにお菓子付きで出てきた。チャイ1杯だけだと思ってたから驚いた。後で聞くと料金はなんと13トルコリラもする。自分で入れる方式で、茶っぱとかお湯の分量がわからないわ、付け合わせの塩味ひまわりの種は噛むのに疲れるわで散々。べつに騙されたわけではなく、聞きもせずに自分で店に入ったのだが。余計なことはしないほうがいいと思った。
 
いい加減、旅にも疲れてきた。
 

50日目 トラブゾン(2012年9月21日)

追加1泊ぶんの宿代を払って、ブランチにケバブサンドを食いに行く。店の親父と代金のことで揉めるが、強気にって言い値を維持する。わずか2トルコリラ、しかもこちらの記憶もあやふやだったけど、損をさせる気持ちでも強気にいったほうがいい。中東では、本当に向こうが正しいんだったら向こうも譲らないんだから。日本人ちょろいと言う感覚を持たせてはならない。
 
海沿いの砂浜のベンチに座ってタバコを吸っていると、3人の若者が寄ってきたので、話をする。頭の狂った英語の話せないイケメンと、おとなしいタフガイ、医学部に通っている聡明なやつの3人組。イスラム圏の男は本当にセックスの話しかしないらしく、それだけで2時間くらい盛り上がってしゃべる。
 
医学部の少年が英語がうまいので、彼を通訳にして話をしていたけど、基本ジェスチャーと大声で何かを叫び合うだけで気持ちが通じて楽しかった。とはいえ、この度を通じて何度も感じたが、これは言葉が通じないがゆえの「気持ちが通じ合った感」であり、要はただの錯覚なのであり、日本でよく見かける、国際交流好きの学生が浸ってる麻薬の正体である。
 
別れ際、医学部の少年から「ギフトだ」と言って、トルコ国旗の月と星のキーホルダーと腕輪をもらった。楽しい奴らだった。
 

51日目 トラブゾンアンカラ(2012年9月22日)

帰国まで残り1週間を切った。トラブゾンを出て、夜行のメトロバスで首都アンカラへ。大きな通り沿いにビルが立ち並ぶ、ヨーロッパというよりは東南アジアの大都市のような都会だ。
 
ディスカウントしてもらったビジネスホテルにチェックインした。ゲストハウスに泊まるのも疲れたので。
 
歩いてアタテュルク廟を見に行く。途中、サッカースタジアムの近くを通り、ガラタサライのユニフォームを着たサポーターの大群とすれ違って疲れた。スタジアムの公園でジェラートを買って休憩する。
 
ムスタファ・ケマルが眠るアタテュルク廟は、世界史で出てくるので是非行きたかったところ。数千年経った後、廃墟となったここも遺跡として未来の観光名所になるんだろうなと思った。
 

52日目 アンカラサフランボル(2012年9月23日)

アンカラを早朝のバスで出発し、サフランボルに到着。この度の最後の目的地となるはずだ(ここで3日くらい過ごしてイスタンブールに戻って終わり)。
 
ゲストハウスでベッドを確保してから町をぶらついていると、カッパドキアで同じ宿だった佐藤さんと偶然会って、一緒に晩飯とお茶をする。有名なサフラン茶はかなり微妙な味だ。
 

53日目 サフランボル(2012年9月24日)

サフランボルの街を歩きまわる。といっても、ものの数十分で一周できるほどの小さな町で、知り合いの日本人旅行者に何度も出くわす。カッパドキアかパムッカレのオトガルで少し会話した日本人のおじさんと遭遇し、一緒にランチを食べる。
 
ひとりになりたくてもトルコ人はなかなか一人にしてくれない。英語のできないおじちゃん2人に絡まれ、チャイ3杯、タバコ4本をおごってもらった。
 
クランキョイまでイスタンブール行きのバスチケットを買いに行った帰り、チャルシュ(商店街)のベンチでタバコを吸っていると、また英語のできないトルコ人ファミリーに絡まれる。One, Two, Threeも言えない、小学生レベルの単語も分からないで、どうして外国人に話しかけようと思うんだろう。日本人からすると理解できないメンタリティを実感した。
 

54日目 サフランボルイスタンブール(2012年9月25日)

サフランボル最終日。まぁバスまで時間を潰すことしかできることはない。
 
同じ部屋に日本語のできる韓国人が2人いて、いろいろ話す。特にスーさんという方は、早稲田にある語学学校に通っていて、仕事を辞めて世界一周をしているそうで、頑張っていろいろな話を聞かせてもらった。たぶん俺が英語でしゃべるべきだったんだろうけど。
 
日中はぶらぶらした後、昨日会った日本人のおじさんをバス停に案内し、夕食をおごってもらう。チャイが1杯15トルコリラもして、申し訳なくなったのでその分だけ払った(安めの夕食代だ)。
 
同じ部屋に居た台湾人と一緒に、宿のオーナーに車でオトガルまで送ってもらう。僕が小さいバックパックしか持っていないのを見て、オーナーのおじさんに「そんな小さい荷物で2ヶ月も旅行してるのか」と驚かれた。
 

55日目 イスタンブール(2012年9月26日)

イスタンブールのオトガルに5時半ごろ到着して、そのまま街へ向かう。約2週間、トルコ全土を回ってきて、イスタンブールに戻ってきた。スルタンアフメット地区のホテルは、早朝すぎてどこも満室だった。チェックインから1番遠い時間だもんな。
 
公園でしばしば時間をつぶして、38トルコリラのゲストハウスに仕方なくベッドを確保。このゲストハウスは若い欧米人しかいない。
 
疲れたので昼間はずっと寝てて、気づいたら夕方になっていた。いつものロカンタで、この旅最後のディナーを取る。
 
ブルーモスク前でチャイを飲んでいると、キプロス出身ドバイ在住の少年に飲みに行こうと声をかけられた。今回の旅の流れからして当然断ったが、それはそれで楽しくない。ついていって行ってから状況に応じて判断するやり方を教え得しないと旅が楽しくなくなるな。とりあえずたくさん資金があれば騙されても問題ないわけだけど、今の有り金じゃそれもできない。
 

56日目 最終日 イスタンブール(2012年9月27日)

ついに2ヶ月間に及んだ中東一人旅の最終日。といっても金も体力もやる気もないので何もしなかった。
 
有り金は残り4トルコリラ。スルタンアフメット地区からイスタンブール国際空港まで電車で行けるギリギリの現金だけを残してだらだらすることにした。マクドナルドでツイッターを見たり、無駄に何度もボスポラス海峡を往復したり。10月も近くなり、かなり寒かった。
 
スルタンアフメット地区からメトロの駅までのトラムは2トルコリラ、空港までのメトロは2トルコリラだと思っていたので、合計で4トルコリラ残しておけば空港までたどり着けると言う考えでいたのに、1回3トルコリラで計6トルコリラ必要と気づき、焦る。結局、トラム5駅分を、重いリュックを担いで走らなければならなくなった。あのイスタンブールの西日を受けながらのマラソンは強く印象に残り、後々思い出すだろう。
 
 

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【中東一人旅 2012】④ヨルダン・イスラエル編(2012年8月29日~9月9日)

 

27日目 ワディ・ムーサ(2012年8月29日)

昨日のことがあまりに疲れて、昼過ぎに起きたのでやることがなく、街を散策することにした。
ワディ・ムーサは楽しい街で、パノラマはとても美しい。昨日の夜はその夜景の美しさに息をのんだ。
 
ぶらぶら歩き回って、町の全景とか、学校の校庭とか、いたるところを歩き回ってカメラに収める。
 
夕食の会場で早稲田の2人組、IT企業の人と会い、酒を一緒に飲む。
彼ら三人はワディー・ラムと言う砂漠に行くらしく、明日ここを出るとのこと。
 
アンマンの「香田ホテル」での再会を約束する。
 

28日目 ワディ・ムーサ(2012年8月30日)

今日はついにペトラ遺跡に行く。インディ・ジョーンズの舞台になった場所で、今回の中東旅行の中で行きたかった場所トップ3に入る(他はエルサレムイスタンブール)。
 
泊まっているゲストハウスから15分ほど歩き、遺跡のチケット売り場に到着。1日券、2日券、3日券があったが、さすがに1日券を選ぶ。3日券は4日目フリー入場券がついているとのこと。誰が4日も連続でペトラ遺跡に行くのか?
 
ペトラはとてもスケールの大きな遺跡で、1つの町全体が遺跡となっているような感じ。
 
入り口から赤茶けたうねる壁の隙間をぬって30分ほど歩くと、有名なインディ・ジョーンズの寺院に到着。その正面のカフェのような広場で一休みする。
 
観光用のラクダ乗りが頻繁に声をかけてきてうっとうしい。ちなみにこのラクダは、乗るときは1ドルだが降りる時に10ドルを要求されるとか聞いた。中東にしてはマシな詐欺だと思う。
 
その後は遺跡の色々なところをぶらぶらしてみる。赤茶けた岩の塊をぐんぐん登っていったり、ほぼろクライミングのようなことをしてみたり。日本から履いてきたゴム草履が意外と丈夫で、それほど足は傷まない。ひたすら進んでいると意外なところから巨大なモニュメントが現れたりして、歩いていて飽きない。遺跡中に猫が闊歩していて、中東の猫らしくとても人懐っこい。
 
遺跡の奥まで進んでみる。インディ・ジョーンズのあたりでラクダに乗ってた人がもう戻ってきている。歩くととても遠い。ゴム草履でほぼ登山のような活動をしている。奥地の山をトレッキングして登っていくと、「世界の終り」と称された場所があった。
 
その崖下の風景には思わず息をのんだ。ぐるりと囲む小さなカルデラのような場所から下を見ると、底が見えないほど奥深くまで崖が続いている。なるほど、旧ペトラ国では、確かにその場所が世界の終わりだったんだろう。写真を撮ったがこの「世界の終わり」感がうまく表現できない。
 
合計10キロ以上はゴム草履で歩きまわり、くたくたになった。ゲストハウスへの帰りがけ、売店を商う家族に話しかけられて会話をする。なぜヨルダン人は僕の持っている百均で購入したコンパスを欲しがるのだろうか。
 

29日目 ワディ・ムーサ→アンマン(2012年8月31日)

早朝に起きてワディ・ムーサのゲストハウスをチェックアウトし、首都アンマンへ向かう。アンマンというと中東の紛争関連のニュースで、ジャーナリストが拠点にしているイメージがある。ということは多分治安もいいんだろう。
 
バスに乗り、3時間くらいで到着。これまた結構な高所にある町だ。バスターミナルから谷間の町を見渡せる。ダウンタウン行きのバスを探していたところ、親切なおじさんの助けで格安セルビスを見つけることが出来た。
 
ダウンタウンに到着し、バスを降りて香田ホテルを探すが見つからない。そこら中の人に声をかけてみるが、例によってヨルダン人はでたらめばかりで全く手がかりがない。ただ、おかげでダウンタウンを一通り歩くことができた。アンマンはかなり混雑した町で、東京のように歩道の狭い大通りをたくさんの人が行き交い、歩道脇に店舗が軒を連ねている。感覚的には香港やバンコクの下町に近い感じ。街歩きは楽しいのだが、いくら歩きまわっても香田ホテルが見つからないので、諦めて、タクシーを捕まえて初乗り料金で連れて行ってもらった。
 
香田ホテルに到着。ここは、名前の通り、2004年のイラク日本人殺害事件で殺された香田証生がテロリストに捕まるまで拠点としていたホテルで、日本人バックパッカーにはとても有名な宿だ。正式にはマンスール・ホテルという名前。多少汚いことをのぞけば普通の安宿といった感じで、日本人以外も多く泊まっている。
 
ベッドを確保して荷物を南京錠で繋ぎ、ひとまず散歩をする。香田ホテルを見つけるまでにダウンタウンは一通り歩いてみたので、高台の方を散策してみる。イヤホンでPerfumeを聞きながら歩いていると、道路の反対側の家の窓からニカブ姿の女性が手を降っている。というか手招きしている。暇だったので家に行っても良かったのだが、なんとなく面倒で、ことらも手を振り返してバイバイする。
 
香田ホテルに戻り、ワディ・ムーサで別れたモモ、シュウ、ITの3人組と合流。宿にいた他の4人と一緒に、日本語ができるスタッフの方にご飯を連れて行ってもらった。イラク料理だった。たらふく食ってたったの1.5ジョルダンディナール。めちゃくちゃ安い。
 
その後、なぜかウイイレができる店があると言うので、みんなでウイイレ大会 in アンマンを開催。元芸人の山本さん、めちゃくちゃ面白かった。ヨルダン人の人と対戦し、彼らはヨルダン代表、俺はイスラエル代表を選択。こちらがボロ勝ちしたら、かなり微妙な空気になっていた。たぶんヨルダンvsイスラエルは日韓戦みたいなものだろう。
 
香田ホテルに戻って、ギリシャ地球の歩き方のPDFをもらおうとしたが、回線が遅くて無理だった。まあなくても旅は出来る。
 

30日目 アンマン→エルサレム(2012年9月1日)

旅をはじめて1ヶ月がたった。香田ホテルをチェックアウトし、最も行きたかったイスラエルへ本格入国する。早大生2人組のモモ、シュウと一緒に国境を越えることにした。
 
ヨルダン側の国境のキング・フセイン橋の入国審査は、物足りないほどスムーズだった。聞かれたことも、エイラットのイミグレとほぼ変わりなし。エイラットでは3人に代わる代わる質問されたが、キング・フセイン橋では1人だけだったため、むしろ簡単だった。質問も同じで、「ウェストバンクに行く予定はあるか」と聞かれる。前回の反省を生かして No, ときっぱり言うと、すぐにパスしてくれた。最後も笑顔でパスポートを渡してくれたりと、地球の歩き方やネットの体験談とは違って全く不快ではなく、むしろ好印象だった。
 
国境からエルサレム旧市街までの道、世界の始まりのような真っ白の荒野をセルビスで進んでいく。
エルサレムのダマスカス門の前でセルビスを降りる。ヤギの背中に乗ってエルサレムに入城するイエスの幻影は見えない。
露天でミネラルウォーターを買う。現地企業が作っているものなのか、他の中東諸国で見るペットボトルとは違う、アニメキャラクター?みたいなラベルの水。飲み口も工夫されていて、他の国とは違った印象を受ける。
 
セルビスを乗り換えて、バックパッカーの間で有名なイブラヒムじいさんの家に行く。エルサレムのセルビスは、公共の路線バスと全く同じルートを、若干安い価格で(おそらくは民間人が無許可で)走るマイクロバスだ。
 
イブラヒム・ハウスに到着。ここは、イブラヒムというじいさんが運営する、というか住んでいるただの家であり、ゲストハウスではない。宿泊料もない。ただし、じいさんの個人的な活動を支援する寄付金を払わないといけないらしい(500シェケル=約1,000円)。
 
僕らが着くなり、じいさんは僕らをハグし、Eat, eat と何度も繰り返し、たらふく飯を食わされた。じいさんはおしゃべり好きで、ボケてもおり、何度も同じ話をする。クウェート出兵のときに食べたご飯の話を何度も聞かされた。
 
ベッドを確保して、イブラヒム・ハウスの中を色々探索してみる。屋上からの市内の眺めが素晴らしい。聖書に出てくるオリーブ山の遥か向こうの砂漠まで見渡せる。屋上の安楽椅子に座っているアメリカ人のおじさんに話しかけられ、聖書のメタファーについての話しを一方的に聞かされる。単語が難しすぎて話の内容がほぼわからず、適当に相槌を打っているだけだったが、向こうも誰でもいいから喋りたかっただけだろう。
 
夕飯を食べたあと、日本人宿泊者の数人で集まっておしゃべりをする。会社を辞めて世界一周中のノゾミさんが、僕たちにエルサレムユダヤの歴史を教えてくれた(penのユダヤ教特集を読みながら)。イブラヒム・ハウスには僕より中東の歴史と文化に詳しい人間はイブラヒムじいさんしかいないことが分かった。
 

31日目 エルサレム(2012年9月2日)

朝起きて、昨日買ってたヨーグルトを食べる。共用冷蔵庫なので自分の名前を書いておいた。外に出て煙草を吸いながらぶらぶらする。近くに幼稚園?小学校?があり、子どもたちが道端でサッカーをしている。イブラヒム・ハウスの近くは猫がいっぱいいて、中東の猫らしく、いつも通りとても人懐っこい。
 
昼前にイブラヒム・ハウスのみんなと昼食をとった後、モモ、シュウ、ノゾミさん、ユカさんと5人でエルサレム旧市街へ行くことにした。めちゃくちゃ行きたかった場所だ、今回の旅のハイライトになるだろう。
 
宿にいたフランス人にバスを使わない帰り方を教えてもらうため、徒歩で向かう。オリーブの丘をひたすら登っていく。途中、ユダヤ式の墓地があった。真っ白くて四角い棺が、真っ白な地面の広大な空間にぎちぎちに並んでいて、パノラマで眺めると遠くの方が霞むほど。棺に刻まれたヘブライ語が幾分厳かに見えた。
 
ダマスカス門に到着。「エルサレム旧市街」は城壁に囲まれたエリアで、岩のドーム嘆きの壁聖墳墓教会ゴルゴタの丘)といった三大宗教の聖地がぎゅうぎゅう詰めになっている、一神教というマグマの噴出口のような場所、あるいは三大宗教の始発駅であり終着駅でもある場所だ。もともと、今回の中東旅行に行こうと思ったきっかけがエルサレムだった。地球人口と近代史の大部分の性格を形作ってきた3宗教を生んだ地に足を運ぶことで、それらを生み出したエンジンのようなもの、もしくはある種の魔術のような空気に浸れるのではと(暇すぎて)思っていたのである。
 
旧市街の内部に入って、まずはイエスが最後の晩餐をやった場所に向かう。旧市街はそれ自体がショッピングモールのようになっていて、観光客向けのTシャツ("Don't worry america, Israel behind you"のTシャツとか、海外でも見かけるようなやつ)を売っている店とかがいっぱいある。急に中東っぽくなってきた。
 
最後の晩餐の部屋に行った後、嘆きの壁に行く。ここに近づくには白いユダヤ式の帽子(キッパー帽というらしい)をかぶる必要があり、係の人が配っていたので受け取る。ちなみにこのキッパー帽は静岡の企業が作っているらしい。真剣に祈りを捧げている人や、何かが書かれたペーパーを壁にねじ込む人で混み合っている。
 
次は岩のドームへ。ここはムスリムではないので入場ができなかった。仕方ないので、青空の下で金色に輝くドームの前でみんなで写真を取った。どのへんが「岩」なのかは分からない。
 
次にいこうと思ったダビデの道は入場料の必要な博物館で、それほど面白くはない。というか面白がるだけの教養がない。ヤコブ聖堂をまわって、聖墳墓教会へ行く。ここはすごかった。入場するとまず目に入るのは巨大な壁画と、その前にひざまずいて祈る人々。日本人の僕の目からは、かなりしっかりひざまずいて祈っている。カトリックの教会のはずだが、ムスリムのサラーとのお祈りのようにしっかりしている。お祈りしている人の中にはアジア系の人もたくさんいた。地下2階の教会もとても良い。
 
夕飯はイブラヒムじいさんの Eat, eat, のポリシーにより、味のないピラフを腹が突き破られんばかりに食わされる。びっくりするくらい味がなくて、塩とかソースとか手当り次第にかけてみた。肥沃なイメージのない中東で食えないくらい食わされるとは思わなかった。
 

32日目 エルサレム(2012年9月3日)

今日はユダヤ教会の総本山、グレート・シナゴーグへ行く。
 
イブラヒムじいさんの家から歩いて向かう。エルサレム新市街の方向だ。旧市街のアラブっぽさとうってかわり、ヨーロッパ風のきれいな町並みが続く並木通りを歩いていく。
 
グレート・シナゴーグアンコールワットの「王の居室」に似た厳かさで、司教座から一望する教会内の景色は素晴らしい。来客は僕らだけだったが、自然と言葉を失うような空間だった。
 
その後、近くの市場に行き、見て回る。カラフルな果実を並べた屋台が続き、写真を撮るのが楽しかった。カラフルな飴を買い、屋台でジェラートを食べて休憩。
 
トラムに乗り、次は郊外のホロコースト博物館に行く。早めに回っても2時間はかかるほどのボリューム。教養が足りないのであまりコメントできることはない。展示ルートの最後の、ホール・オブ・ネームズと名付けられた部屋は印象的だった。
 

33日目 エルサレム(2012年9月4日)

 
エレサレムからバスで30分ほどで、観光客もいくことができるが、パスポートを持っていかないといけない。簡単な入境手続きのようなものがある。バスには中学校くらいの生徒がたくさん乗っており、パレスチナ自治区からイスラエル領のエルサレムまで通学している子がいるのかと驚く。
 
ベツレヘムでは生誕協会、ミルク聖堂を見た。移動の途中、10数人くらいのデモ隊が通りかかった。それほど危険な感じではない。
 
ベツレヘムは特段なにもなく、またアラブに戻ってきたか、と言う感じ。
 

34日目 エルサレム(2012年9月5日)

モモ、シュウと3人で死海へ行く。延々と砂漠を走り、唯一のパブリックビーチの近くでバスを降りる。
 
砂浜の丘を下って海の方に行くと、結構な人数が海に浮いている。向かいの岸の方にヨルダンが見える。僕も入ってみると、想像した以上にぷかぷか浮いて面白い。このまま浮いたままヨルダンに入国できそうだ。塩分濃度が高すぎて、こっとした傷がめちゃくちゃしみる。
 
休憩所のようなところでハイネケンを飲んで休憩し、エルサレムへ帰還する。しかし複数で行動するとハプニングに巻き込まれることが少なくなるな。
 

35日目 エルサレム→テルアビブ(2012年9月6日)

イブラヒム・ハウスで最後の朝食(いつものベチャッとした味なしピラフ)をとり、昼過ぎに後にした。この家には5泊した。寄付名目の宿代も安く、飯も洗濯も無料で、イスラエルでは考えられないほど安く滞在できた。イブラヒムじいさんもたまにいきなり怒鳴り散らすものの、近所の人たちからも愛されていることが分かった。そして風変わりなおじさんだった。
誰かがアレンジしてくれたハイヤーを待つ間、長期滞在者のアーネストからまたカトリックギリシャ神話の話しを聞かされた。
 
モモ、シュウ、ノゾミさん、ユカさんと日本人5人でテルアビブへ移動する。エルサレムから高速で2時間くらい走り、テルアビブ市内へ到着。中東風の文化のエルサレムとはうってかわってヨーロッパ風の町並みだ。ハイヤーのドライバーが勧めてくれたゲストハウスにチェックインし、近所のスーパーでカップラーメンを買って昼食。その後、みんなでビーチへ行く。
 
テルアビブのビーチは繁華街のすぐ近く、高層ビジネスビルが立ち並ぶところにある。ビジネス街を水着姿の人々が悲痛に歩いている。みんなでビールを飲み、海にダイブし、水平線に落ちる夕日を眺める。とても素敵だった。
 
こじゃれたレストランでディナーをとった後、ゲストハウスにいたノルウェー人の男も一緒にとみんなでクラブへ行った。9時くらいだったが、繁華街を歩いても治安の悪い感じがまったくしない。外国で夜に出歩いて安全な感じがするのははじめてだ。クラブは入り口でIDチェックが会ったものの、フロア禁煙でさすが治安の良い町と言う感じ。
 
踊りまくってタクシーで帰宅。くたくたになって、すぐにベッドで横になった。
 

36日目 テルアビブ⇄ハイファ(2012年9月7日)

ハイファのバハーイー庭園を見にいくために8時起きでハ・シャローム駅へ向かう。いつもの5人。
バハーイー庭園は、イランで生まれた密教バハーイー教の総本山で、ハイファのカルメル山という丘の上にある。アンマンの香田ホテルで地球の歩き方をパラパラめくっていたときに見つけて、美しさと厳しさが素晴らしいと思い、行ってみたいと思っていた。
 
ハ・シャローム駅についたら、構内に入る前に手荷物と全身のX線検査が。エルサレムのデパートでも同様の検査があり、イスラエルは徹底的にセキュリティにこだわる国だなという印象。こっちは旅人だからいいけど、地元の人たちは毎回毎回めんどうくさくないのだろうか。構内でコーヒー味のシャーベットジュースを飲み、電車に乗って1時間ほどでハイファへ到着。
 
ハイファは海に面しており、市内の奥の方に丘陵地帯がそびえ立ち、その麓に小ぎれいな街並みが広がる美しい都市という印象。肝心のバハーイー庭園のツアーには間に合わず、ひとまず市内中心でバスを降り、散策しながら歩きでカルメル山を目指すことにした。
 
とても洗練された街並みを歩くだけで楽しい。ヘブライ語の看板が日本語のカタカナにどことなく似ていて面白く、スマホで写真を取りまくる。
 
カルメル山の中腹を通るストリートをどんどん歩いて登っていき、高台から市街地とその奥にあるビーチを見下ろすパノラマを見た後、庭園上部の入り口に到着。いきなり眼下に広がる庭の風景はなんともいえず素晴らしかった。内部に入ることは出来なかったが、庭園の前でみんなで写真を取る。
 
その後、やることもないのでタクシーでビーチへ行き、みんなでダラダラ。ビーチサイドのレストランで昼食をとり、ワインを飲んでゆっくりする。
 
テルアビブへ帰った後は、宿にいた日本人3人組も合流して、日が暮れても治安の良いロスチャイルド・ストリートを歩いてまたビーチへ。焚き火を囲みながら酒を飲む。モモ、ユウちゃんと3人で映画や音楽の話で盛り上がる。
 

37日目 テルアビブ(2012年9月8日)

今日はテルアビブ最終日。夜の飛行機に行くまでは暇な一日。
めずらしく午前中に起きて、ノゾミさん、ユカさん、モモ、シュウの5人でスーパーで買い出しに行き、宿のキッチンでサンドイッチを作って外のテラスでみんなで食べた。ハイネケンも飲んだ。かなりチルな時間を過ごせて楽しかった。
 
その後はみんなでまたビーチに行き、大波を被ったり、コーヒー味のシャーベットを飲んだりする。このシャーベットはテルアビブの街中の屋台で売ってるのだが、めちゃくちゃ美味しくて何度も飲んだ。
 
夕方に帰り、シャワーを浴びた後、パスタを作って食べた。ゲストハウスのテラス席でコーヒー、タバコとともに10人くらいで談笑。クラブに一緒に行ったノルウェー人はいなくなっていて、アメリカ人の2人組、ロシア人バックパッカー、などが新しく来ていた。
 
6時ごろにゲストハウスをチェックアウト。30ドルくらいのきれいなドミトリーで、8人部屋のベッドはいつも清潔に保たれており、トイレにウォシュレットもついていて感動的なほど快適だった。さすがはテルアビブという感じ。ちなみに、テルアビブの物価は東京より高くて、ビッグマックセットが15ドルくらいする。
 
俺、モモ、シュウの3人はテルアビブを発つためバスセンター駅へ。3人とも、イスラエルには8日間居たことになる。ノゾミさん、ユカさんとも一緒に歩いていき、2人とはバスセンターの手前で握手をして別れた。その後はバスセンターでモモ、シュウの2人とも握手をし、日本に帰ってから飲む約束をした。俺はバスセンターに隣接するハハガナ駅からベングリオン空港に向かうので、2人ともここでお別れ。2人とはルクソールのブーメランホテルで会ったのが最初なので、3週間近く、断続的にだけど行動を共にしていたことになる。
 
長いこと複数人で行動していたので、1人になって急に寂しくなってきた。鉄道駅のベンチでこれを書いてるけど、妙に不安な感じが沸き起こってくる。どの電車に乗ればいいか、ヘブライ語の表示が読めないので人に聞けばいいのだが、なんとなく声をかけづらい感じがする。なんか、旅のスキルが落ちた気がする。本当に寂しく感じたせいで能力が落ちている自分が珍しくて、笑えてくる。
 
なんとか正しい電車に乗れて、無事ベングリオン空港に到着し、落ち着いてきた。
イスラエルハブ空港であるベングリオン国際空港はとてもきれいな空港で、入場だけならセキュリティーチェックもなし。横になれるタイプのベンチがないのが残念だが、今日はここで夜を明かして、翌朝のアテネ行きの便を待つことにする。イスラエルはどこでも、公共施設での禁煙が徹底されている。空港や駅でもまた然り。
 

38日目 テルアビブ→アテネ(2012年9月9日)

朝4時くらい。テルアビブ、ベングリオン空港のロビーで書いている。
 
やはり横になれない硬いベンチではほとんど寝ることが出来なかった。冷房で体が冷えたので、ロビーの外に出てベンチでタバコを吸う。同じように空港内で夜を明かしていた人たちが起き出してきて、喫煙所にぞろぞろと集まってくる。イスラエルの最後の朝焼けの下で、エジプト人旅行者にライターを貸す。
 
7時ごろにチェックインに向かう。ついにイスラエルを出国する。検査場では、危惧していた通り、なぜか危険人物認定されて別室でズボンまで脱がされて全身の身体検査を受けることに。日本から持ってきたペーパータオルをとても怪しがっていた。あと英語の質問にすらすら答えられなかったことも向こうの不安材料となったようだ。安全は何ものにも優先する、の原則が確かに厳格に実践されている。旅行者を不快にさせ、イスラエルが嫌われようとも、彼らは徹底的にやるのだ。その前提を理解していないと、イスラエル行政の行動は狂人にしか見えない。
 
全身検査を終えると、OK, Good luck to your trip, といって笑顔で送り出してくれた。
免税エリアを一通り見て回り、自販機でコーヒーを買おうと思ったが、操作方法が分からず諦めた。自販機に投入した10シェケルは帰ってこなかった。
 
機内ではギリシャ人の団体客のおばちゃんたちが大騒ぎしていて、僕の席に勝手に座っていた。キャビンクルーが、申し訳ございません、といって別の席を案内してくれた。ギリシャ人のおばしゃんたちの傍若無人っぷりはまるで中国人の団体客のようだった。
 
2時間ほど東地中海を飛び、アテネ空港に到着。
地下鉄で、アテネ中心部のオモニア広場まで行き、この周辺で宿探しをする。財政破綻したギリシャ政府へのデモ活動がかなり行われていた。
 
宿探しは、3軒目でやっと納得のいく値段のゲストハウスと出会い、部屋も見せてもらったらとても綺麗で、言うことなくここにチェックイン。アテネ・イージー・アクセスというゲストハウス。8人部屋のドミトリーだが、俺しか宿泊客がいないようだ。
 
 

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【中東一人旅 2012】③エジプト編(2012年8月13日~8月28日)

 

11日目 アレキサンドリア(2012年8月13日)

ノルマンディー・ホテルは、使えるといったWi-Fiは使えないわ、トイレットペーパーは無いわ、ファンはなくて暑すぎるわ、停電はするわで最悪なので、近くのユニオン・ホテルへ移る。あと洗濯も行う。
 
今日はノルマンディーの人と言い争ったり、ホテルを移ったりで疲れたので何もしなかった。久々にインターネットにつなぐ。
 
晩飯は初めてコシャリを食べる。エジプトの庶民料理で、パスタ・ライス・レンズ豆など炭水化物に炭水化物を重ね、その上からケチャップをまぶした丼ものみたいな食べ物。日本円で50円くらいで食べられるので、腹持ちのコストパフォーマンスが絶大。
 

12日目 アレキサンドリア(2012年8月14日)

2日連続でだらけたので、この日はホテルから出てちゃんと観光しようと決める。
といってもアレクサンドリアは特に見るべきところもなさそう。もともとエジプト入りのために安い飛行機チケットがあったから来ただけで、アレキサンドリアに何日いようとは決めていない。
 
とりあえずアレキサンドリア博物館に行ってみようと決心。ホテルから徒歩でホレイヤ通りを歩き、到着。
ここはアレキサンドリア沖で見つかった主にローマ時代の物が展示してある。すべて海の中にあったものと考えると少し感慨深いが、ヨーロッパの博物館で見れるものと対して変わらず、と思った。Google時代に見るべきものとして、有名観光地や発掘品の博物館は、足を運ぶ価値がないのかもしれない。
 
その後、有名なアレキサンドリア図書館へ行く。こちらの方が地元のアーティストの作品が展示してあって面白かった。
 
家の近くに戻ってきてマックで昼飯を食べていると、そのマックの店長だという男に声をかけられる。
泊まってるホテル名を言うと、自分の兄弟がそのホテルのオーナーだと言い、その兄弟に頼んで宿泊代を半額にしてあげると言ってきた。
明らかに怪しいが、もしこの人について行ってみても断ることができると考えたし、コーヒーをおごってくれると言うし、どうせヒマなので、付いて行ってみた。
コーヒーをおごってくれて飲んでいる時など、携帯を買った方がいい(紹介してあげる)などと言ってきたり、兄弟に渡すから半額の宿泊代を今渡してくれなどと言ってきて、案の定と思った。
無視して一旦ホテルに戻って確認してみると、大慌てしだして面白かった。ホテルのフロントに「この人は本当に兄弟か?」「俺の宿泊代を半額にしてくれると言っているが本当か?」など聞いてみるが、すべて「No」の回答。すると、その男はコーヒー代を払えないと言い出し、20ポンド払えと言ってくる。断ると、だんだん15ポンドまで値下げしてくる。普通はコーヒーはいくらくらいだ?と他の人に聞くと3ポンドと回答があり、そしたらあの店は高いんだと言い出す。
結局ホテルの警備の人が出てきて、スタッフの兄ちゃんとじいさん3人がかりでその男を追い出す。その男は半泣きで追い出された。
警備のおじさんはノープロブレムだ、向こうで座ってなさいと言ってくれ、日本語で「キヲツケテ、ヨイタビヲ。エビ、サカナ、タイ」と言ってくれていい人だった。
一番怒って熱心に追い出してくれたじいさんにチップを渡す。
ヒマだから、わざと付いて行って面白い体験ができたけど、他の人に迷惑をかけるから次からはやめとく。
 

13日目 アレキサンドリア(2012年8月15日)

アレキサンドリアは1日中クラクションが鳴り響が騒がしい街だ。
しかし、ここはカイロとはうって変わって静寂の町であると地元のひとたちは言う。
蚊は服も来ていなければ、バックを肩から下げてもいない。とても身軽だ。故にもろく壊れやすい。人だけが重たい荷物を背負っている。それが重ければ重いほど遠くへ行けるようになり、そして大地と混ざり合う。
 

14日目 アレキサンドリア→カイロ(2012年8月16日)

マスル駅にタクシーで向かい、昼の1時の列車に乗ってカイロに向かう。なんと10エジプシャン・ポンド(=約\50)で乗れる列車だった。これが、定刻通りなら3時間で着くはずが、10時間もかかったんだから。安かろう悪かろうどころの話じゃない。
 
こんな激安の列車に乗ってくる外国人などいないらしく、車両中の人が俺の席に集まって珍しい見世物(俺だ)を見学しに来ていた。一方俺はハリウッドスターになったような気分だった。
最初に座っていた席では近くの席の家族と触れ合って、特に子供になつかれて楽しかったんだけど、中東の習慣なのか知らんが、床に落とした食べ物全部食べさせられてめんどくさかった。エジプト人はとにかくコミュニケーションが濃い。
 
1時間くらい列車が順調に走ったあと、2時間くらい謎の理由で停車した。その間にエジプト人の若者3人に激しく絡まれて、お互いのことを話したり外に出て写真を撮ったりして遊び、終始爆笑していた。このワイ、アリ、ザブルの3人は何でも盛り上げてしまう。
 
彼らと一緒に写真を撮り、Bluetoothで送ってくれと言われ、iPhoneなのでできないことを伝えたかった言葉が通じない。そこで英語出来る人いないか?と集まってきていた車両のみんなに聞くと、11歳の少年が手を挙げてくれた。彼ヤフヤを通訳にして、車両のみんなといろいろな話をする。ワイは日本人と結婚したいから紹介してくれだの言ってくる。君が日本にこられたら最高の美人を紹介するよと言うと大盛り上がり。
 
その後は主にヤフヤと英語で会話をする。彼とはとても仲良かった。ワイ達はクリスチャンだから社内で飲酒・喫煙しまくっていたが、彼は「タバコは体に悪い」と俺に止めるように言ってきたり。日本は危険だ、YouTube津波を見たと言ったり。原発事故のことを言っても通じなかった。
 
英語はアメリカ映画を見て覚えたと言っていた。俺の想像だけど11歳でアメリカ映画を見まくっている子供は、エジプトの普通の子供とは話が合わないだろうし、普段乗ってる列車にひとりで日本人が乗ってきて話し合えたら楽しかったんじゃないかと思う。
 
日が暮れて、電車ではないので電気が通っていないらしく、車内はめちゃくちゃ暗くなっていた。さすがの庶民エジプシャンたちも疲れたらしく、ワイは荷物棚の上で寝ていた。ほんとにカイロに着くのか? ていうか、そもそも本当にカイロ行きの列車なのか? 不安に思えてきた。
 
ヤフヤが日中に水を飲んでいたので、ラマダンを破ったねと言うと「静かにしといて」と言っていた。列車が遅れる事はそう多いことでは無いらしく、ヤフヤは何度も心配しないでと言ってきたし「僕もビビってる」とか言ってきて面白かった。
 
ヤフヤ親子は途中の駅で降りて行ったが、その際ニカブを被ったヤフヤママが水とジュースをくれ「気をつけなさい、カイロは危ないから自分で自分の身を守りなさい」と言ってくれた。ヤフヤは「またエジプトに戻ってきても友達でいて」と言ってくれた。(教えてもらったフェイスブックのアカウントは、後で宿についてからWi-Fiに接続して探してみたがヒットしなかった。残念だ。)
彼らのおかげで7時間遅れの電車での退屈もしのげたし楽しかった。
 
カイロに着くと地下鉄でタフリール広場へ。デモとかやっていてかなり騒々しい。道のあちこちに穴が空いていたり、焦げ付いた建物とかあって革命直後のカイロに来たんだなという実感が湧く。
目当ての宿が空いていなかったので、疲れていたので適当な宿にチェックインして睡眠を取る。
 

15日目 カイロ(2012年8月17日)

昨日の夜中にチェックインしたキングパレスは虫とかが不快だったので、午前中にチェックアウトして退散。サラ・インというホテルに移動。屋上のプレハブ小屋みたいな1室を借りる。実際、屋根はあるが壁はなく、代わりに薄茶色のビニールシートを垂らすことで壁の代わりとしている部屋だった。プレハブですらない。
 
ピラミッドに行こうと思っていたのだが、代わりの宿を探したりで疲れたので、ケンタッキーで昼食を食べて、エジプト考古学博物館に行くことにする。
 
考古学博物館には数百台のミイラの棺があり、さながらファラオのバーゲンセールのようだった。見たかったツタンカーメンのミイラは、今は東京で展示中とのことで不在にしていた。なんで、わざわざエジプトくんだりまで来たのに、ちょうどいいタイミングで日本に行ってるんだよ。
 
そして他のものを見ていたが、すべての展示品を見終わらないうちに閉館と言われて追い出されてしまった。この時まだ4時前だったが、入り口には確かに入場5時までと書いてある。周囲の他の日本人観光客も文句たらたらだった。
 
その後はメトロでオールド・カイロ地区に行ってみるも、特に面白いと感じるものはなかった。店舗の人たちはみんなテレビでロンドン五輪のサッカーを見ていた。
 
夜はタフリール広場のデモを見に行って、帰り道に捕まった客引きから絵画を買ってしまった。その手法について非常に腹が立ち、いろいろ悩んだが、メモしないでおく。
 

16日目 カイロ(2012年8月18日)

朝からピラミッドを見に行った。
 
タフリール広場近くのバスターミナルから行こうと思ったが、なかなかバスが見つからず困った。適当に何人かに声をかけると、誰かに、そこのバスで行けると言われたのでそのバスに乗って待っていると、別のおじさんがこのバスは違うから降りろと言う。
直感でこのおじさんが正しいように思えたので従った。ぜんぜん別の場所を教えてくれ、よく見ると確かに地球の歩き方にもそう書いてあったので乗車する。そのおじさんは、話してみると教師をしているそうで、直感で信頼して良かった。エジプト人の言う事はあてにしないほうがいい。
 
経験上、欧米ならガイドブックなしでも旅行できるだろうが、発展途上国では現地の人々はでたらめしか言わないので、逆にガイドブックしか信用しちゃいけない。
 
トリビアの泉で取り上げられてた、ケンタッキーのスフィンクス前店で昼食をとった。
 
ギザのピラミッドはなかなか面白かったものの、べつに写真で見た通りといった感じで、これといって感銘は受けなかった。インスタ用にとった写真くらい。それよりも、ピラミッド周辺をうろちょろする物乞いや土産物の押し売り、記念写真詐欺の連中がうっとうしくて仕方なかった
 
俺の写真を写ルンですで勝手に撮ってしつこく売りつけようとする親子にはマジで切れてしまって、ピラミッドのふもとにあったレンガのような石を持ち上げて、逃げないと投げつけるぞ、と言って脅してしまった。それを言うと素直に退散していた。
 
帰りのセルビス(公共の路線バスと同じルートを(たぶん勝手に)走る私営のマイクロバス)の乗り場もまた分かりづらく、探すのに疲れてヘトヘトになったので、宿に帰って泥のように眠る。
 

17日目 カイロ→ルクソール(2012年8月19日)

今日は昼に起きて、宿をチェックアウト。トルゴマーン・バスターミナルへバスのチケットを買いに行く。
途中、少年たちの相手をしたり、写真を撮らせてあげたりして楽しかった。Facebookにアップすると言っていた。カイロでは道ですれ違う人、すれ違う人から声をかけられ、有名人になった気分が味わえた。東アジア系の風貌の人間がよほど珍しいのだろう。
声をかけられるときは大体、「ニーハオ」と挨拶してきて、その後に「Where from?」と聞いてくる。とても違和感があるが、中東では同じアラビア語を使っていても国籍が違うのが通常なので、そういう感覚で喋っているのだろう。
 
その後はバスでイスラム地区へ行った。シタデルという城は、5時クローズのはずが到着した3時の時点で閉まっており入場できず。入り口の係員に文句を言うが、まぁいつものエジプトといった感じでシッシッとされる。
 
適当にぶらついていると、明らかに観光地ではない地元のエリアに侵入してしまって迷った。低い屋根の平屋が並び、地元の子供達がサッカーをして遊んでいる。この地元エリアは、静かに朽ち果てた町といった感じで感銘を受けた。途中、どこかの家の前で民族衣装を着た人たちが黙って集まっていて、葬式か何かだったんだろうか。とにかく、砂埃が西日に照らされて印象深い土地だった。宿に戻ったあとで地図を見てみても、自分がどのエリアに迷い込んだのかは分からなかった。
 
道がわからなくなってかなり困っていたところ、親切な人が声をかけてくれて、カイロ中心部の方向を指さしてもらい、宿に帰ることができた。
この日はフルマラソンくらいの距離を歩いたんじゃないかと思う。足が痛い。
 
その後トルゴマーン・ターミナルへ行き、「王家の谷」があるルクソール行きのバスへ乗る。バスターミナルでサンドイッチを食いながら待っている時に韓国人バックパッカーの女の子に話しかけられ、同じバスに乗るとのことで一緒の座席に座る。
 
窓から見た砂漠の夜空が素晴らしかった。しかしなぜ深夜に英語の映画を流すんだ。途中、両サイド見渡す限り砂漠しかない場所でバスが停まり、おじさんが降りていき、そのまま真夜中の砂漠の奥深くに歩いて消えていったのが気味悪かった。そんなところに帰る家があるのか?
 

18日目 カイロ→ルクソール(2012年8月20日

10時間ほどバスに乗り、朝方にルクソールに到着。
バスターミナルに着くと客引きがやってくるが、タクシーと交渉中に韓国人バックパッカーの子はいなくなっていた。
 
結局セルビス(ミニバス)に2ポンド払って連れて行ってもらう。運転手が5ドルで町を案内すると押し売りしてきたのは、エジプト人の外国人向け商習慣は分かっているのでもはやいいが、断ると、それならハシーシュはどうだと言ってきたのは少し驚いた。
 
宿にチェックイン。とても清潔で安く良い。1週間滞在していると言う日本人の女の子がいた。旅慣れていると言っているが、抜けていて大丈夫かと思ってしまう。
 
夜行バスでろくに寝られなかったので夕方まで爆睡。起きてスーパーで買い出しをする。宿に帰ってこの日記を書く。そろそろ夕飯を食べに行こう。
カバブの店で晩飯を食う。量が多い上に茄子のサラダがまずくて完食できず。その割には高かった。3週間ぶりにビールを飲む。ハイネケン。うまかった。
 

19日目 ルクソール(2012年8月21日)

昼過ぎに起きて行動開始。
 
カルナック神殿に行くために駅前でミニバスをつかまえたかったが、どれもカルナック神殿へは行かないと言う。近くにいたタクシーと交渉するが、折り合わなかったため、立ち去るフリで気を惹こうとしたが乗ってこなかった。本当に正直な言い値だったのだ。
もとの場所に戻るのも癪なので、そのまま歩いて神殿へ行く。かなり暑く、熱中症気味になる。
 
カルナック神殿はなかなか感銘を受ける遺跡で、レベルは違うがアンコールワットの感動に質的に近い。
 
神殿の内部は薄汚れた野良犬が気怠そうに闊歩しており、数千年前に存在しただろうこの神殿の当時の賑わいを対比的に鮮明にさせる。
高さ30mほど?の巨大な柱が数十本も並ぶ、乾いたホールのような場所で一休みする。この柱の影で王子が女中を口説く、みたいな場面を想像したりする。
 
また歩いて帰り、途中のコルニーシュ(海岸沿いの通り)のベンチに座り、ナイル川に浮かぶ夕日を見るために待機。水面が夕日に照らされ美しかった。
エジプトに来てから、目にしたすべての光景は4千年前の人々も同じように見ていたのだなと感じられ、不思議な時間感覚が芽生えてくる。
 
マクドで久々に生野菜を食べた。長いあいだ野菜を食べなくてもそれほど体調に影響はない。
 
ルーマニアのアイセックの女子大生殺害事件や、シリアで日本人女性ジャーナリストが殺害された事件をツイッターで知り、いろいろ考える・・・。
要するに、海外のリスクは外国にあるというより自分の内側にあるんだと思う。イラクでテロリストに殺害された香田証生の件を見ても、いま自分がいる外国での見られ方ではなく日本での見られ方を意識した振る舞い、他人からどう見られるか・見られたいかを過剰に意識した振る舞い、外国にいながら自己の関心のフォーカスは完全に日本にあるような精神状態は、危険なリスクへの突入度合いを格段に上昇させる。
自分の旅のスキルを自覚し、その成長目標とのギャップを少なめに見積もること。とにかく無理をしないことだ。
 

20日ルクソール(2012年8月22日)

朝、ウェストバンクを回ろうと思っていたが、昨日の日射病のせいか起きれず。昼過ぎ起床に。
 
起きて外でタバコを吸っていると、暇ならということでオーナーのムハンマドの客引きに付き合わされる。
 
バスターミナル前のツーリストインフォで日本人を発見し、ムハンマドがツアーや宿泊、空港へのタクシーを勧める。関西弁のおじさんで、おっとりした気さくな人だったが、彼のオファーを断っていた。
 
オーナー曰く「彼は誰も信用していない。私は他のエジプト人と違って、60ポンドなら60ポンドと言うよ。私が誠実なのは君にもわかるはずだ」と愚痴をたれていた。
 
一方、僕の方はおじさんと晩飯をおごってもらう約束をしていた。
宿の屋上のくつろぎスペースで2~3時間くらい、酒を飲みながらネットを見て過ごし、近所のアラブ料理屋でおじさんと合流。おじさんは保険会社に勤めている人だった。
中東の料理屋はだいたいそうだが、人間の残飯狙いの猫が住み着いており、おじさんと多めに頼んで残りを猫にあげて餌付けしていた。
 
宿に帰ってからはスタッフ日本人の宿泊者と皆で酒を飲んだ。
この宿は親父と二人兄弟の3人家族で運営されており、オーナーのムハンマド親父は日本人にはコバヤシと名乗っている。息子のうち、兄はドレッドでマリファナを四六時中吸っており、ドイツのBMWの工場で働いていたという理由から、イスラム教徒なのに普通にビールを飲んでいた。弟のアマルは気のいい若者で、英語もうまく滞在中はなにかと親切にしてもらった。
 

21日目 ルクソール(2012年8月23日)

今日はルクソール神殿へ。ルクソールに来て初めて早起きし、宿の朝食を食べた。トーストとヨーグルトとバナナだけだったが、おいしかったので明日も食べたい。
 
滞在しているナイル川東岸から船着き場へ歩き、西岸へフェリーで渡る。料金は1ポンド(約5円)。乗客はほとんどいなかった。だるそうに座っているスタッフがいたが、会計係でもなく特に何もしていなかった。
 
ナイルの川面を眺めながらゆったりとしていたら向こう岸に着いた。自転車をレンタルしてルクソール神殿へ向かう。
途中で自転車が壊れてキレそうになる。借りるときは親切にしてもらった自転車屋のにいちゃんから修理費としてレンタル料金の倍額を請求されそうになり、さらに怒りが増す。明らかに自分の乗り方のせいで壊れたわけではないと確信していたので、結局交渉して修理費は払わないことにした。元のレンタル料金は払った。35℃以上の酷暑の中、5キロくらい自転車こぎまくった挙げ句のこのザマで、ルクソール神殿に付く前から心身が疲れ切った。
 
新しい自転車に替えてもらい、草と砂と太陽しかない道を爆走し、メムノンの巨像を横目に見ながら通り過ぎ、入山口?のようなところを炎天下でひたすら自転車こいで、王家の谷の入り口に到着した。テーマパークの入り口のチケット売り場のようなところでチケットを買う。俺が買ったチケットは3箇所までしか見れないらしい。閑散期なのか、観光客はかなり少なくてしょぼく見える。
 
パークの入り口からは有料のミニトレインが走っているが、ミニトレインは片道5E£もかかるとのこと。アレキサンドリア→カイロの貧民列車と同じコストじゃないか。金を使いたくないので歩いて移動する。特に見るべきもののない石灰色の不毛の谷をえんえんと進む。
 
まずはツタンカーメンの墓に行った。内部はひんやりしている。僕が入る時に日本人の老夫婦とすれ違ったが、「君学生さん?思ったほど面白くないよ」といらん情報を入手。行ってみたら、まあでっかい箱が鉄柵に囲まれた場所に配置してあるだけだったが、雰囲気は感じ取れる。
 
その後、ハトシェプスト女王の墓に行く。崖を切り抜くようにして作られた巨大な神殿のような墓。ここは昔テロリストによる日本人観光客含む無差別殺傷事件が起きた場所だ。規模の壮大さとエジプトの乾いた日差しを借景として、アラー・アクバルを叫びながらAKを連射するTシャツ姿のテロリストと、発狂して逃げ惑う麦わら帽子をかぶった団体観光客のシーンの幻影を見る。
 
王家の谷のあまりの広さ、墓と墓の移動に疲れてだるくなり、3つめの墓を見ずに帰ることにした。高い方のチケット買わなくてよかった。
 
ブーメランホテルに戻り一旦休憩したのち、スーパーへ買い出しに出かけると、バイクに2人乗りした謎の少年たちが声をかけてきて、スーパーまでバイクに乗せて送ってくれた。どうせバクシーシを要求してくるだろ、と思っていたらほんとうに送り届けてくれただけで、びっくりした。暇だったのだろう。バイバイを言って別れた。
 
スーパーで買った菓子パンと魚の切り身?のようなやつを食べた。屋上でタバコを吸いながらゆっくりしていると、2人組の早稲田の学生が上がってきた。2学年下で、どちらも同じ商学部で、共通の知り合いも何人もおり、かなり意気投合して仲良くなる。東南アジアでも、ベネツィアでも、UAEとヨルダンの国境でも、どうしてこんなに近い繋がりのある早大生と出会うんだろう。
 

22日目 ルクソール(2012年8月24日)

昨日の王家の谷をさまよう旅に疲れて昼に起きて、屋上で音楽を聴きながらだらけていた。アマルと少し会話をする。
 
日差しはかなり暑いが、それが短時間なら、なかなか気持ちいい。今日出発するはずだった日本人の女の子ユリナが体調悪くし、翌日一緒にダハブに行くことになった。
 
彼女は良い宿だと思っていたのに、印象悪くしているようだ。宿のオーナーに変な薬を飲まされたとか言っていた。ずっと騒いでいる。
 
母親に相談したらしく、なぜか俺がskypeで母親と話すことに。あと彼女のTwitterが炎上していた。彼女が宿の人たちに親切にされていたのに結局騙された、みたいなツイートをして、お前が旅のスキル低いだけだろ、日本人の恥、みたいな感じで叩かれていた。
 
ユリナの母親いわく、オーナーのムハンマド(小林)が宿泊客にすぐ手を出す厄介ものだと言う話がネットに書いてあるらしいが、自分が調べたところそういった情報はとくに見当たらなかった。彼女の母親はとても心配していて、良いお母さんだなとはとくに思わず、こんな甘やかされて育ったのによく中東にバックパックしようと思ったな、という印象。
 
実際、お金が盗まれたと彼女は言っているけど、彼女の勘違いではないかと思う。たった33ドルを長期宿泊者から盗むってのも変だし、仮に本当に盗んだとしても、僕の経験上、発展途上国とでは出来心レベルの悪さであり、悪人と言うほどではないかと思う。僕に言わせると、財布から33ドル盗むのも、中東や東南アジアでよくある土産物のボッタクリも、悪さレベルで言えば対して変わらない。要は対して悪くもない、仕方のないことだと思う。
 

23日目 ルクソール→ダハブ(2012年8月25日)

早朝に起きて、ルクソール駅のバスチケット窓口に行く。ダハブ行きの便はすでに満席で、ひとまずシャルム・イッシェーフ行きのバスのチケットを買った。
 
ユリナはどんどん体調が悪くなっているようだ。腹痛で日本から持ってきた薬を飲んでいても治らないので、宿のスタッフに相談したら、現地の薬を飲んだほうがいいとのこと。それでスタッフが買ってきてくれた緑の大きな薬を飲んだら、体調が悪くなったらしい。
 
オーナーのムハンマド(小林)は何か思い違いをしているようで、俺と口をきいてくれなくなった。
それでも宿の人たちはやはり悪い人ではないように思う。アマルも最後は名残惜しんでくれた。ブーメランホテルは、とても清潔で、居心地の良い宿だった。10ポンドの朝食がとてもおいしかった。ボリュームも多くて嬉しい。
オーナーのムハンマド親父も、息子のアマルも、そのドレッド兄貴も俺は好きだった。
 
バスの出発時間までやることがないので日記を書くしかない。
 

24日目 ダハブ(2012年8月26日)

前日夜中にルクソールを出たあと、シャルム・イッシェーフに昼頃到着。ここはシナイ半島イスラエルの領土だった頃に開発されたリゾート地で、ヨーロッパの富裕層がバカンスしにくるところ。
 
バスセンターはちょっと広めのガソリンスタンドくらいの大きさで、素朴な感じがする。シャルムで一泊してもいいかと俺は思っていたが、リゾート地なので物価が高すぎるのと、同行するユリナがはやく病院に行きたいとのことで、やはりダハブ行きのチケットをその場で買って、すぐにバスに乗り込むことになった。
 
ダハブに到着。有名な日本人宿に入った。なんか日本人宿は居心地が悪いような気がする。やせた穏やかな犬がたくさんいて、人を全く警戒せずに昼寝している。
 
ユリナを宿の日本人スタッフに引き渡し、救急車を読んでもらった後、宿の屋上にある食堂に行った。メニューにとんこつラーメンと書いてあるのを発見。1ヶ月もラーメンを食べてなかったので、すぐに食べたくなった。
頼んだら「賞味期限が切れているけどいいか?」と店員が言ってきた。いいわけない。代わりにそうめんをオーダー。
 
その後、少々海に入ったがすぐに疲れてリタイヤ。シャワーを浴びるが、海水が含まれていて石鹸がうまく泡立たない。
 
シャワーを浴びた後は、岸辺のレストランでチャイ2杯を飲みながら煙草を吸いつつ、読書を楽しむ。隣の欧米人の家族が猫にエビを与えていて、エビを殻ごとがっつく猫が不気味で面白い。
 
宿に戻ったら1人になった。みんなダイビングの免許講習に行ってるみたいだが、俺はダイビングの免許を取りに来たわけではない。金ももったいないし、取っても別にやらないので取るつもりもない。
日本人宿で1人になるのはなんとなく寂しさを感じる。こんなことならシングルの部屋か、他の宿にするべきだったか。
 
さて夕飯は何を食べよう。思うにダハブは、ダイビングをしない人は楽しめないのではないだろうか。ダイビングの講習仲間で仲良くなってって感じで。ひとりでぶらぶらしている日本人も少し見かけるが、仲良くなれないかな。ダハブの人たちは愛想が悪い気がする。
 
夕飯は中級レストランでかわいい猫達と戯れながら、やせた猫に餌を与えようとするのに、別の太った方がかっさらっていってしまう。やせた猫は諦めて寝転がっていて本当にかわいかった。挙句、テーブルまで上がってきて俺が残したスープをなめなめしていた。
 
ユリナはまだ帰ってこない。病院で寝ているのかもしれない。ここ数日愚痴を聞かされ、予定も振り回されて正直めんどくさくなってたので宿のスタッフに任せたのだが、俺はいかなくてよかったのだろうか。
 

25日目 ダハブ(2012年8月27日)

Twitterを見るとユリナは病院で点滴を打っているらしい。
 
今日もやることがない。
キューバセットを買って、人がいなさそうなところでちょっとだけ海に入ったら、そこはサンゴがあって足を怪我するから上がれ、とライフセーバーに怒られて、すぐに上がった。つまらない。ぶらぶらしてコシャリ屋までいって昼食を取る。
 
ここダハブでは、ダイビングやる以外にやる事はないに違いない。またカフェでダラダラ。
暇すぎるので、明日ダハブ出ることにする。
 

26日目 ダハブ→エイラット→ワディ・ムーサ(2012年8月28日)

今日ダハブを出て、イスラエルのエイラット経由でヨルダンへ入国する。
ダハブのバスターミナルで待っていると、ルクソールのブーメラン・ホテルで出会った早稲田の2人組と、他の日本人バックパッカーの人と一緒になった。彼らはエイラットを経由せず、フェリーでヨルダンの紅海に面する港町ヌエバに直接行くらしい。
 
ダハブからエジプト側の国境の町ターバーへ向かう道は、草木1本寄せ付けない不毛の山岳だった。
 
懸念していたイスラエルのへ入国は比較的すんなりと通った。イミグレで3人の検査官にヒアリングを受け、荷物を調べられた。「イスラエルでどこに行くのか?」「パレスチナに行く予定はあるか?」と聞かれ、Maybe no. と答えると、「Maybe だと許可できない。Definitely no と言ってほしい」と言われ、粛々と従うことで事なきを得た。しかし善良な日本人である僕にこんな時間(15分× 3人)かけるなら、普通のアラブ人なら一晩たってもまだ入国できないだろう。
 
イスラエル側のイミグレーションを出て、ヨルダンへの国境に向かう。エイラートで見たイスラエルは灼熱のヨーロッパ、砂漠のヨーロッパといった感じ。英語もよく通じ、通りがかりの人が(商売気なく)で手助けしてくれる。道に迷っていると子供と自転車に乗ったおじさんが How can I help you? と声をかけてくれてヨルダン国境行きのバスに乗ることが出来た。
 
ヨルダンのボーダーでアメリカ人、メキシコ人、カナダ人のバックパッカー3人組と出会い、4人でイミグレを抜けることにする。ヨルダンの入国管理官は、僕のジャパンパスポートを見るとノービザで通してくれたが、アメリカ人・カナダ人は20ドル、メキシコ人には40ドルを請求していた。メキシコ人が切れまくってて面白かった。
 
僕の方は入国検査も淡々と進んだので、先に一人でヨルダン側へ到着。紅海のさきっぽが尖る川沿いを進み、バス停を見つけた。すぐにバスが来たが、他の三人はまだ出てこないので、彼らを置いて一人でアカバの町中へ行く。
 
さて、アカバのバスターミナルで、ペトラ遺跡へのベースキャンプとなるワディ・ムーサ行きのバスを見つけないといけない。おなじみの通りアラブ人は適当なことばかり言うので一向に見つからない。昼食をとるが、どうしたものか。そろそろ日も暮れてきそうだ。心細くなる。
 
手当たりしだいに話しかけまくった結果、ようやくワディ・ムーサ行きのセルビスが見つかった。
と思ったら、ヨルダン側に入った途端、あのアラブ人のクソふざけたビジネスマインドにさらされ、数時間のイスラエル滞在がどれだけここで良かったか思い知った。
またタクシーにボられた。というか完全に犯罪まがいの騙され方をした。クソほど腹が立つ。
 
何が起きたか。アカバで乗ったセルビスは、2時間くらい走ったところの別の町中で一度停車し、大量の少年が乗り込んできて、座席の下のスペースに置いてあった謎の青色の液体をすべて運び出し、また出ていった。
 
その後セルビスはバスターミナルらしき場所につくものの、地球の歩き方に載っているワディ・ムーサのバス停の写真と全然違うように見える。
 
ここはワディ・ムーサか?とセルビスの太った運転手に聞くと、質問に答えず、「こいつのタクシーに乗れ」と言うと、建物の中から子供を抱えたやせ細った黒Tシャツの男が出てきた。
俺は怒りが抑えられず、「ここはワディ・ムーサじゃないな?お前は嘘を言ったな、違う場所に俺を勝手に連れてきたな!」とわめきまくったが、セルビスの運転手は俺の胸をどついて、I dont say, と言って去って行った。
 
国ぐるみでカモられている気がする。何かを断ると、行く先々で誰かが待ち構え、また俺をカモにする。
 
日が完全に暮れ、ヨルダンの知らない町で、真っ暗闇の中、騙されたことに気づいた。怖くて仕方ない。しょうがないので痩せた黒Tシャツの男の車に乗ることにした。
結局、そいつの運転で無事ワディ・ムーサに着くことが出来たが、道中、アラビア語の音楽を車内で大音量でかけて、子供と黒T男がカラオケしてるのに苛つき、窓ガラスをドンとぶっ叩いて静かにさせた。
 
ワディ・ムーサの第一印象は、山肌に無数の町がはり付いて、家々の光が月面のような空間をライトアップしている、美しい町だと思った。途中で連れて行かされた、暗くて乾いた町とはまるで違う。
 
宿にチェックインし、無料の夕食を出してもらった。量が多すぎて全然食べられない。宿のヨルダン人スタッフはとても優しい。今日のエピソードを話したら、一緒に怒ってくれて、写真を取っていたら警察に言うのに、ヨルダン人はそんなクリミナルな人は少ない、あなたが安全で良かったわねと言って俺を抱きしめてくれて、めちゃくちゃ泣きそうになった。
 
宿のテラスで煙草を吸っていると、昨日ダハブのバスターミナルで一緒になった早大生2人組と別の日本人が来て、合流した。彼らはバスでここまで来ていたが、途中でパンクしてスピードが出なくなり、時間がかかったとのことだった。この路線にまともな交通サービス作ったら儲かりそうだ。その他日本人の女の子2人組とも合流して、みんなでビールを飲んだ。
今朝はダハブにいて、イスラエルのイミグレを突破し、エイラットで親切にされ、ヨルダンで騙され、でもようやくここにたどり着けて、長い一日だった。
 
ワディ・ムーサは乾いてはげた山肌の中腹に位置する町。標高が高いのか、夜は気温が下がって寒い。長袖の上着を持ってきていなかったので、フェイスタオルを肩に巻いてしのいだ。中東で長袖が必要になるなんて思いもしなかった。
 
 

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【中東一人旅 2012】②ドバイ・オマーン編(2012年8月5日~8月12日)

 

3日目 ドバイ(2012年8月5日)

7時ごろメトロに乗ってオールドスクール近くの宿にチェックイン。
 
7時間爆睡し、シャワーを浴びて少し散歩。
信じられない暑さで風が吹くと全身で熱風のドライヤーを浴びているような感じで、思わず笑ってしまう。ラマダン中ということで外で飲み食いしている人を見かけないが、こんな環境で数百年も暮らしていれば、こんな耐久性を追求する宗教を選択した理由も分かるというもの。
 
運河を渡るアブラに乗って反対岸へと渡る。スークを見て回り、軽く散歩してみたが特に面白いものはなし。ラマダンがきついな。
夜はなんとなく岸でまどろむ。
 

4日目 ドバイ(2012年8月6日)

2泊分の宿泊費を払う。昨日の晩飯を食べていないので腹が減った。メトロのデイリーパスを--- ってモール・オブ・ジ・エミレーツへ。スキードバイを見る。資本主義の効力が感覚的にダイレクトに突き刺さる。資本主義の元手は一つ、化石燃料で、それらを独占しさえすれば短期間で魔法のように豊かになれるし、その魔法は砂漠にゲレンデさえもたらす。
その後に行ったドバイモールもなんの面白みもなく、タバコを吸っているところを注意されただけ。
 
一旦宿に帰る。どうにもねむたくなってくる。近くの食堂で晩ごはんを食べ、アブラに乗ってブール地区へ。岸辺でまどろんでいると、パキスタン人に声をかけられる。パキスタンなまりの英語がひどく聞き取りにくかったが、金の話などしない良いやつだった。化学工場で働いていて、マンガを読み、ブルース・リージャッキー・チェンが大好き(彼らが香港人だと教えるとがっかりしていた)。
 

5日目 ドバイ(2012年8月7日)

この日は疲れて休憩の日。夕方5時ごろから行動開始。
マスカット行きのバスチケットを取り、ラマダン明けに備えてまたブール・ドバイの岸沿いへ移動。アブラに乗るのもだいぶ慣れた。
 
ラマダンが開けると、アラビア語の歌と謎の咆号が砂漠に屹立するドバイの街中に鳴りひびく。その瞬間が楽しい。
 
一旦宿に帰って荷物を置き、近くのアフリカ料理のレストランで食事。店内のテレビでサッカー日本代表が五輪セミファイナルで負けるところを見届ける。そういえば、エジプトではほとんど誰もサッカー以外のオリンピックを見ていないようだ。
スークを見て回り、写真をとる。とても楽しい。オレンジジュースを買って、バニヤススクエアでだらだらしながら飲む。一人で座っているだけでいろいろな人に話しかけられて楽しい。
 

6日目 ドバイ→マスカット(2012年8月8日)

朝5時起きでオマーンのマスカットに向かうバスに乗り込む。オマーンについては、"サッカーで勝たせてくれる国"程度の認識しか持ち合わせていなかったが、日本人があまり行かなそうだし、マスカットという首都の語感にみずみずしいイメージを感じて、なんとなく行ってみようと考えた。
 
UAE側はドバイを出ると写真で見たような砂漠が続き感動する。
オマーン側に入国すると地肌の見えた山岳地帯が続く。国境ではVISA代が20オマーン・リアルほどかかるという話を聞いていたが、係員がジャパンパスポートを確認して無料で取得できた。
 
国境のイミグレで降りたアラブ人のおじさんを乗せずにバスが出発したが、彼はそこまでのチケットしか持っていなかったのか。あまり考えたくない。
バスに乗っている間お腹が痛くて仕方なかった。
 
マスカットは岩肌のもとに広がる町だった。日本で言えば地方の町村といったレベルで、その語感から受けるようなみずみずしい印象とは正反対の街だ。ルートタクシーで中心街のマトラへ行き、宿にチェックイン。
値段より低質だと思うが、物価の高い街なので仕方なし。
 
マトラ→オールドマスカットを散策し、道に迷ったのでタクシーを拾うと、そのおっちゃんがいろいろ案内してくれて嬉しかった。
フォートや王宮に行った。しかしやっぱり案内代を含んだ高めの請求をしてくる。言いなりにならず交渉し、値段を抑えるがそれでも普通にタクシーに乗ったより高い。
向こうが勝手に案内したわけだから払う義務は無いが、日本人と言うことで足元見られた。親切も高額請求を断りにくくするためのはずだし。まぁこういう非日常な体験をしに来てるわけだし、と思い込んで怒りを抑えようと思ったが実際はかなり腹が立った。アラブ人は何かにつけてちょろまかそうとしてくる。なんで友達でもない、客とビジネスマンという関係でしかない人にちょっと信頼を裏切られただけで俺はこんなに怒ってしまうのだろう。
 
晩飯は近所のパキスタンレストランでチキンカレーを食う。客は俺しかいなくて、店員は誰も働いていない。
 

7日目 マスカット(2012年8月9日)

朝起きてシャワーを浴びる。
 
信じられない。村上春樹の言う通りシャワーは青がお湯で赤が水だった。普通逆だろ。
ブチ切れながら冷水シャワーを浴びる、は中東あるあるなのかもしれない。
俺はイスラム圏に幻想を抱いていたのかもしれない。イスラム教徒は敬虔な宗教実践者というイメージを持っていた。
実際は嘘ばかりつく、金はちょろまかす、知らないのに知っているふりをする。アラーってなんだ?
なぜ神を持たない日本人の方がアラブ人より礼儀正しいんだ?  この辺のギャップの理由を旅行中に見つけたい。
アラブ人にとって何が正義なのか。何が本音で、それを隠しているベールはどれなのか。
 
バスセンター(といってもチケット窓口と数件の両替屋が並んでいるだけだ)のあるルイ地区に行き、ニズワ行きのバスチケットを買う。
この時のタクシーの運ちゃんは俺が多めに払ってもお釣りをくれた。聖人だ。おそらく他の乗客がいたからだろう。結局他人の目があるかどうかということなんだろう。それは日本人の振る舞いと変わらないし、宗教を信じることの便益は神の目を意識することで優れた振る舞いができることにあるのではないだろうか。
 
その後マトラ・スークを見学する。中東最大のスーク(市場)だ。確かにこれは雰囲気がある。
洞窟のような雰囲気のアーケードの道の両脇にいかにもアラビックな露天が無限に続いていて、アバヤを被った母娘が楽しそうに買い物している。幻想的だった。
 
晩飯はスーパーで買ったお菓子でしのぐ。中東を一人旅しているとレストランを探したり交渉したり、釣り銭をちょろまかされないか気を配ったり、ちょろまかされたら怒って取り返すためにエネルギーを使うので、こういう食事が増える。
 

8日目 マスカット⇄ニズワ(2012年8月10日)

7時起きでニズワに向かうため、ホテル周辺でタクシーを捕まえるが、間違って行き先を言ってしまったため機嫌悪くされてしまい交渉不成立→乗車拒否。なんだこれは。
ルートタクシーに乗ったためバスターミナルへの到着が遅れ、ニズワ行きのバスは出発してしまっていた。
 
ONTCのオフィスで待機。
 
バスにようやく乗れて、ニズワ到着。乾燥した大地に巨大な岩山のみがある場所に降ろされ、どこで何をしたらいいかわからん。とりあえずぶらついてみる。
町…というか廃村といった雰囲気。歩いていても人っ子一人会わないが、不思議と建物の窓の奥から無数の視線を感じる。
ラマダンの日中は表を歩かないだろうし、この国の窓はマジックミラーが多いので見られているんだろうか。
 
タクシーでニズワ・フォートまで来てみたものの、休日なので午前で閉館していた。
フォートのふもとの町は廃れていて良い雰囲気を感じるものの、人々に「うわ、外人や・・」て感じでジロジロ見られるので気分が良くない。
 
日陰の風通しの良い場所を見つけたのでそこで1時間ほどだらだらする。
 
何もないのでタクシーを捕まえ、バスステーション付近のショッピングセンターへ行く。
 
アラブ圏の釣り銭ごまかしは必ずやるみたいだ。故郷から8,000km離れた砂埃の町でまた運ちゃんと喧嘩する。
ショッピングセンターで帰りのバスの時間まで涼んでいるが、やはりこの国は外国人と言うだけで舐め回すように見られて気分が良くない。早くドバイに戻りたい。
夕飯を食べたレストランは昨日の所と違ってとても良心的だった(お釣りをごまかさない)。
 
その後、岸辺でタバコ吸っているときに老人に話しかけて少し話した。やはりこちらから話しかけたりアクションを起こせば皆良い人なのだ。受け身の姿勢だと舐められて足元を見られる。
 

9日目 マスカット→ドバイ(2012年8月11日)

朝早くマスカットを出て、ドバイ行きのバスへ乗る。
 
同じバスに日本人、しかも福岡出身で早大卒の人がいた。在学中はわせねこの幹事長だったとのことだった。その人は会社を1週間休んで湾岸諸国を待っているらしかった。
国境でドバイ入国前になぜか俺は酒降ろされて荷物チェックされたり。
 
ドバイに着いてからはYHにチェックインしベッドで長い昼寝をした。
 
相部屋のやつとは全く話していない。アメリカ人らしい。
 
デイラのバニヤス・スクエアに行ってKFCで夕飯を食べる。この間見かけた日本人ぽい女の人がいた気がする。
 
またスクエアのベンチでゆっくりしてでYHに戻る。相部屋のやつはずっと寝ていた。欧米人は1日中ホテルにいる奴が多い気がする。
 
明日はいよいよエジプト入り。
こっちに来て1週間が経ったがどうだっただろうか。安い授業料でいくつかのことが学べたと思う。
中東イスラムの人々は二重の性質を持っていると思う。どちらの性質も他者の視線に対する適応行動であり、一定の歴史と文脈を考慮すれば、一見、利己的に見えても合理的な行動規範にも思えてくる。
 

10日目 ドバイ→シャルジャ→アレキサンドリア(2012年8月12日)

ドバイのYHをチェックアウト。ルームキーを失くしてしまったので10ディルハムを支払う。
エジプトへの移動日。アレクサンドリア行きの飛行機に乗るため、ドバイの北にあるシャルジャ首長国に向かう。
 
シャルジャ行きの「デイラ・タクシーステーション」の場所が分からず、汗だくで探し回る。何人かの人に聞いてみたが、大体の場所を指してくれたおかげでたどり着けた。
エア・アラビアに搭乗し、4時間ほどのフライトでエジプト北部、地中海に面するアレキサンドリアへ。
 
空港で捕まえたタクシー運ちゃんとの交渉で喧嘩するが、これまで学んだことを活かして1歩も引かず。希望通りの条件で乗り込めた。
途中ナイルの水面に映る街が美しかった。こんな光景が見られるのはエジプトだけだろう。
 
エレクサンドリア中心部のマスル駅で降ろしてもらい、ホテルを探してチェックイン。
なんとこのノルマンディー・ホテルは電気が止まっている。夕暮れになるにしたがって、どんどんお化けが出そうな雰囲気になってくる。不安になるので明日には出よう。
そういえばエジプトの交通ルールもまたすごい。3台通れる幅の道に、車線など無視して7台くらい並行で走り、ひたすらクラクションを鳴らし合いながら無理やりに進んでいく。道端にいた人に「交通事故など起きないのか?」と聞いたら、「普通にめっちゃ多い」とのこと。。。
 
レストランが意外と少なく、マックで夕飯を食べる。露店とシーシャ屋しかない。
 

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【中東一人旅 2012】① 出発編(2012年8月3日~8月4日)

 

1日目 成田→上海(2012年8月3日)

出発。中国の航空会社は規制が厳しいらしく、ライターも歯磨き粉も奪われてしまった。ギリギリに着いたのが悪かったんだけれども..。機内は尿の匂いがする。
中国風のBGMは良い。3時間のフライトを終える。19時ごろ上海へ。ここの空港はトランジットでも一度入国しなければならず、珍しいと思う(正しいのかは分からない)。でも人民元がないので何も買えず。ドルか円くらい受け取ってくれると思ったんだけれども。
 
まだ9時前だが、何もすることがない。歯磨きもできないし、寝るか・・・。
新生のキャッシュカード使えるか、10元だけおろして確かめてみるかと思ったけど、だるいので明日で。
 
今やっと11時。ここ本当に24時間オープンしてるのか心配になってきた。最終便が0時台なので、それが出たら照明がシャッと落ちて野宿とかなったらマジ困る。不安に飲まれたときって何も考えられなくなるし、なるようになれで寝たほうがいいと思う。
 

2日目 上海→昆明→ドバイ(2012年8月4日)

空港のベンチで夜を明かす。昨日の夕方以降飲まず食わず。
 
フライト一覧に自分のが載ってないんだが、なぜだ…。不安なことばかり起こる。人間としての機能をシャットアウトしている感覚で、何も生産的なことが考えられない。ひたすらボーッとしていて14時間を過ごした。本をバッグから取り出す気力もない。人間の生存本能とはすごいもので、自動的に体内にストックされたエネルギーに応じて出力を調節するものである。
 
今チェックインを終えて10時半ごろだが、本を読もうとしても30分で5ページも進まなかった。
 
ついに飛行機に乗り、機内食を食べる。20時間以上ぶりの食事。機内食がこんなに美味しいとは思わなかった。空腹は最高のグルメだ。
乗り継ぎ地の昆明空港につくが、乗り換えルートで道に迷い出発時間が過ぎてからイミグレを通る迷走ぶり。
 
他にもアラブ人と韓国人も遅れており、現在出発1時間過ぎてるけど動く気配なし。
大雨の昆明で日記を書く。本当に中国人はふざけてる。誰に聞いてもたらい回し、もしくは談笑しながら俺のことをちゃんとやってるのか、分からない。出発ロビー前のカウンターで引き止められ、何かをずっと調べられて、結局ただそのエスカレータを登るだけだった。本当に何だったんだあれは。
 
定刻になっても飛行機は微動だにせず、16:10発のドバイ行きは欠航しすでに19時前。
「必要な手当てはするので機内から降りろ」とのアナウンスがあり、ロビーに戻って弁当と水を渡される。その後、出発がいつになるか分からないのでホテルへ移動せよとの指示があり、バスに乗り込んだところで出発決定との知らせがあり出発ロビーへ戻る。ライター設置の喫煙所で吸ったタバコがうまかった。
 
6~7時間のフライトを終えドバイ空港へ。思いの外ショボい。
 
現在午前3時。このまま空港で夜を明かして宿を探すつもり。
イミグレで見かけたアラブ人の公務員たちは中国や東南アジア人と比べてしっかりしているというか、文明化されているといった印象。白装束をきっちりと着込み、多くの外国人に与える印象を客観視しコントロールしているといったスマートな感じを受ける。
 

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