稲盛化する社会について
何もすべきことがないので一日中怠けたり、本を読んだり、ぼーっと考え事をしたり、怠けたりしていた。
暇だったのでウィキペディアで稲盛和夫の項目を読んでいた。父が昔京セラに勤めていて、稲盛さんの本は何冊か家にあった。その中の自伝みたいなものは、中学生の時に読んだことがある。父はとくに稲盛的な仕事人生に共感してはいなかったようだが、社内の管理職研修かなにかのために、稲盛さんの著作を(休日に)(無給で)読んで、感想文みたいなのを書いていた記憶がある。Microsoft Word を方眼紙フォーマットにしてなんか書いてたのを盗み見た覚えがある。京セラフィロソフィーとかどうとかこうとか。
ウィキペディアの記述と中学生の時に読んだ自伝と父から聞いた話を総合すると、稲盛さんは中小企業の社長のような人間性とか考え方を持った人のようだ。ビジネスや組織における定性的な事象を、ふたが何枚あっても足りないほど青臭い定式化によって喩えたり(何とかの成果=情熱×行動量×哲学、とかそんなの)、正直外から見ている限りだとかなりうさんくさいというか、小物くさい。知らない会社の最終面接でこの人が出てきてこんなこと言っていたら、100%辞退したくなるだろう。しかし彼のような考え方を受け継いだ創業者たちが日本の偉大な企業を作っているのは現実である。稲盛さんに影響を受けたであろう社訓(でもビジョンでもミッションでも何でもOK)はパッと考えてもいくつも思いつく。
そこで思ったのは、稲盛和夫的な世界が幾何級数的に増殖していっている。まるでアメーバのように。
三田工業、日本航空、窮地に陥った古豪に稲盛和夫が単騎で乗り込んでいき、その稲盛的DNAを、7月の濁った田んぼに分け入っていく広島の農家のように迅速に植え込み、組織を去っていく。稲盛化され、首尾よく盛り返したかつての大企業(とその広報部)は、V字回復のストーリーを出し惜しみなく喧伝し、それらはミームとなってあらゆるメディア(マスなもの、非マスなもの、ソーシャルなもの、非ソーシャルなもの)に流れ込み、人々の潜在的な稲盛的願望の隙間に一斉に潜り込む。稲盛的ブラックホールの種は急速に膨張して、周囲のあらゆる資本、アイディア、勤勉な人材、オペレーショナル・エクセレンス、ビジネス書業界だとかを取り込みながら、複製された島宇宙を拡大していく。行くところまで行けば、それは文化となる。
つまりこの人、アントレプレナーというよりは要するにアーティストなんじゃないか?(もしくは宗教家?)(企業家と芸術家と宗教家の違いって何だろう?)(科学者や浪費家は?)
考えるのに飽きて、ベランダでレジャー用パイプ椅子に座りながら、本を読んでタバコ吸ったりしていたら、ぶんぶんいう虫が寄ってきたのであわてて部屋の中に入った。虫はいつも俺の平穏な世界を破壊する。。。
「カジュアル面談」は普通に面接である件
久々に代々木のアブラ学会に来た。並盛り。真ん中の席に座ろうとしたら、奥から座ってくださいと言われたので、おとなしく一番奥の狭い席に行った。他に客はいなかったのに。
面接の後だったので、態度のでかいやつに見られないように行動しようとする神経が過敏になっていたようだ。
夜は面接。というかいわゆるカジュアル面談だったのだけど、まあ実際もろに面接だった。
採用担当だった身として、いわゆるダイレクトリクルーティング(人材紹介会社を通さず、直接人材データベースにアクセスしてスカウトする採用のやり方)における「カジュアル面談」というのは応募者から見てなかなか位置づけがわかりにくいステップだと思う。
採用する側から声がけするのでもちろん最初は「まずは会社説明として話を聞きに来ませんか?」みたいな下手に出るスタンスにならざるをえないのだけど、企業としてリソースを使って行うからには(データベース利用料、採用担当者の人件費と選考にもコストがかかる。当たり前だが)、企業としては当然選考している。応募者の話をがっつり聞かなくとも、受け答えや質問の鋭さからある程度能力を判定できるし、雑談だけでも人物面の判定は十分に行える。採用面接というのは仮説の検証なので、別にこの段階で十分に判断をしなくてもよく、とりあえず次のステップに進ませても問題ないと判断できればそれでオッケーである。
実際のところ、採用したいと思うような人材は、初めから企業側の意図など十全に承知しているので、あえて「面談」とパッケージすることに意味があるのか疑問ではある(新卒採用でありがちな欺瞞を中途採用に持ち込んだだけじゃないか?)。正直に「会社説明+選考」と言ってしまって別にいいんじゃないか。その時点で応募意志が固くない人にアプローチする手法という前提だが、応募者側も別に興味のない企業に落とされたからといって別になんでもないだろう(いちいちショックを受ける人もいるのだろうか?)。
とりあえず今日はこんな感じ。
ミシェル・ウエルベックにはまっている
『服従』を去年の秋頃、翻訳版が出たときに読み、その直後に『素粒子』を読んだのだが、この1週間で『プラットフォーム』『ある島の可能性』『地図と領土』を遡って一気読みした。(『闘争領域の拡大』は絶版になっていて、Amazonでも9,000円以上の値が付いているので一旦スルー。近いうちに文庫版が出るだろうから)
『服従』はかなり面白かったんだけど『素粒子』は読むのが結構きつかった、というのも、『服従』一冊読んだだけでわかるウエルベック的な文体とか、登場人物や三人称視点の考え方の癖、などの濃度が濃すぎ、粘度が強すぎて、あまり夢中になってページを繰り続けられる感じではなかった。
素粒子を読んでいる途中に、西新宿のブックファーストで『地図と領土』のハードカバーを見かけたので買っておいたのだが、素粒子読了後は手をつける気にならず積んだままになっていた。読む本がなくなったのでぱらぱら読み始めてみると、これがかなり面白く、結果的にウエルベックで一番好きな小説になった。
『地図と領土』はポップだし、ストーリーの起伏も(かなりあざといくらい)乱高下して目が離せない感じになってる。作中に出てくる「シンプルな職業シリーズ」という絵画の発想も面白いし(「ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズ、情報科学の未来を語り合う」「ダミアン・ハーストとジェフ・クーンズ、アート市場を分け合う」とか)
人にすすめるときは『地図と領土』にしよう。
日記2016/04/27
引っ越し屋が部屋の電灯を運んでくれなかったので(僕がいちいち指示をしなかったという理由で運んでくれなかった)、リビングの照明をホームセンターに買いに行った。
いろいろ選んでいるうちに、電灯から放たれた光が空間のどの程度の範囲まで照らすのか、要するにどの大きさの部屋までならまともな明かりとして機能するのかを指し示す「全光束」という概念が存在するらしいことを学んだ。全光束は「ルーメン(lm)」という単位で示され、今まで生きてきて一回も気づかなかったのが不思議だが、あらゆる電球や蛍光灯の箱に必ず記載されているものだ。
大体6畳のワンルームだと2700~3700ルーメンが適切で、12畳(1LDKのリビングくらい)だと4500~5000ルーメンほど必要なようだ。(参考)
以前の部屋は7畳くらいの1Kの部屋だったのだが、イケアで買ったやや洒落た電球の明るさがいまいちで、部屋の天井の中央に取り付けているにもかかわらず間接照明のような様相を呈していた。
一人住まいだったのでまあいいかと思いつつ、北欧で作られてるからこの程度の明るさ(=暗さ)なのであり、スウェーデン人の網膜にはちょうどいいのだろうと考えていた。あらためて箱を見てみると、この電球はわずか400ルーメンしかないらしく、はっきりいって玄関かトイレくらいしか満足に照らせない代物だということがはじめて分かった。ワンルームの天井に取り付けたところで暗すぎるのは当然で、スカンジナビアの日光環境ですらどう考えても不十分、洞窟か下水道であればありがたい程度のものだったらしい。
とりあえず今回は、引越し先の正確な広さはわからなかったものの12畳はあるので、シーリングライト(丸い蛍光灯にカバーがついてるようなやつ)を買った。
12畳用は想像してたよりめちゃくちゃ高かったので(ありものの電球に、ソケットとしゃれたカバーで3,000円くらいかなと元々想定してた)、いちかばちかで4,000ルーメン(箱には最大8畳とある)のものを買った。取り付けてみると実際十分な明るさだったのでまあ、よかったかなあ。
日記2016/04/25
一日中引っ越しをしていた。