ベガスでロシア人を撃つな

その会社はプロジェクトか、それともファミリーか?

本来、会社というものはプロジェクトであるし、本来そうあるべきだ。達成したい目的やミッションやゴールがあり、そのためにチームを集め、資金を調達して希少なリソースを確保し、目論見通りあるいは想定以上の成果を挙げ、見事目的を達成したら出資者にリターンを返すとともにチームも報酬を受け取る。イノベーションを生む企業の多くは、基本的にこのプロジェクトの形で運営されている。
 
一方、かつてイノベーターだった企業が生きながらえて、永続的に安定した集金システムを作り上げると、その内実はまるでファミリーのような共同体となってくる。顧客や出資者やリスク・テイカーに価値を返すのではなく、従業員全員に安心と食事と娯楽を与えるために存在する寄合的な互助集団の様相を呈していく
 
この種の企業によく見られる特徴として、迷走したビジョンが挙げられる。あるいは必要に迫られてビジョンを設定しようとしても魅力的なアイデアが何も出てこないような状態である。なぜ意味のあるビジョンが出てこないかというと、すでに家族だからである。家族には本来達成すべき共同の目的などあるはずもない
 
こうして無理やりひねり出されたビジョンには「いつでも どこでも」「あらゆる顧客に」「幅広いサービスを」「様々な手段で提供する」 のようなブランクワードが窪んだ眼窩に湧き踊り、読むことはできるが意味は分からない感じのステートメントが作り出される(「社会課題をイノベーションで解決する」「テクノロジーで世界を良くする」「インターネットで人々の選択肢を増やす」みたいなトートロジー)。ターゲットが定まっていないので、こうなるとまともな戦略など立てられなくなる。
 
家族とは原理的に、ドライに客観的に言えば、ただ神の気まぐれで同じ場所に生まれ落ちただけの自然発生的な集団であり、そこには明確にすべき存在目的などあるはずがない。ただ共に幸せになっていく終わりのないプロセスがあるのみだ。なので、ファミリー的様相を帯びてしまった企業では、勝てるチームの組成や戦略の最適化といった論点について議論できなくなる。代わりに、今いる人を生き残らせること、快適に職場生活を送れるようにすることが、あらゆる意思決定やその結果として出来あがる仕組みのベースになってくる。年功序列、終身雇用、社内政治、根回し、パワーポイント、認識合わせの会議、誰も傷つけないものの言い方、ローパフォーマーが左遷されるタコ部屋、IT音痴でも使えるようにフルカスタマイズされた基幹システム、こういったものが次第に跋扈し始める。
 
もしある会社がファミリーではなくプロジェクトであれば、チームが存在する理由や目指すべきゴール、そのための明確な期限がおのずと設定される。プロジェクトであれば、年功序列ではなく実力主義、終身雇用ではなく流動的な採用と解雇、社内政治ではなくカスタマーファースト、根回しではなく説明責任、パワーポイントではなくホワイトボードでの議論、認識合わせの会議ではなく意思決定の会議、誰も傷つけないものの言い方ではなくスタンスを張った大胆な仮説の提示、ローパフォーマーが左遷されるタコ部屋ではなくネクストキャリアの後押しと支援、IT音痴でも使えるようにフルカスタマイズされた基幹システムではなく使い方を学習することで汎用性が広がるSaaSこういったものが一切の根回しも認識合わせの会議もなしに自然に採用されるようになる。